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福井散策

和服リフォーム フラメンコ

福井散策

いにしえを偲び歴史を楽しむ!

「ふるさと福井」を紹介しているページです。
散策していて「もう少し知りたい、学習したい」と思うなどー食指が動いた時、その思いをまとめて掲載し、歴史を楽しむとともに安らぎのひと時を大切にしたいと思っています。

 ふるさとのいにしえを偲ぶ思いは、思い出のしみこんだ大切な和服ーを洋服にリフォームする思いと、相通じているような気がしますが、それはそれとして少しでも、「ふるさと福井」への思いと感動をお伝えすることができれば幸いです。
中世の藤島荘 新田義貞公を偲ぶ 写真で見る「ふるさと福井」(一部動画)
福井藩主松平家の別邸「養浩館庭園」 写真でたどる「芝原用水」 散策
法隆寺に匹敵する五重の塔、篠尾廃寺
ー白鳳期初めの巨大礎石、跡地に今も
壮麗な国指定特別名勝「諏訪館跡庭園」
ー一乗谷朝倉氏庭園のうち最大規模ー


2022.12

古来絵図に「馬渡橋」、「馬渡川」
ー橋名の起源、南北朝期ともー


「明新公民館」(福井市灯明寺町)南側を西へ流れる「馬渡川」


「馬渡橋」(写真奥)付近を流れる「馬渡川」
(福井市灯明寺4丁目=セーレン新田工場東側)

 「福井市二の宮」を西へ流れ、「明新公民館」(福井市灯明寺町)南側を過ぎて「芦原街道」沿いに北流し、「馬渡橋」(うまわたりばし 福井市灯明寺4丁目=セーレン新田工場東側)に向かうー「馬渡川」(うまわたりがわ)。

古来絵図には、中角街道に「馬渡橋」とあり、その橋の下に流れる排水・用水が今の「馬渡川」ではないか、と思われます。
さらに、馬渡橋の名の起源は「南北朝期」とも伝えられており、時には往時を偲びながら散策を楽しみたいものです。

藩政期(享保4年ー1719)「九ヶ用水絵図」をみると、排水路で灯明寺村への用水路でもあるー「落江」(幅三尺)は、九ヶ用水大溜め「井袋」の堤防右岸(北側)に沿って西へ流れる。
途中、九ヶ用水から引水する灯明寺村「水溜め」に流れ、ほかの「溜め」にも水を送りながら(ある地点から)北流。
「馬渡橋」を過ぎて西流し「九頭竜川」に流れているようです。

草・雑木で渡し場つくり馬を渡すー馬渡橋の名の起源

 明新マップによると、馬渡橋の名の起源は南北朝期「藤島の戦い」の頃。
この辺りは川とも沼とも区別のつかないー低湿地帯で軍馬の足が立たない場所が多かったため、草や雑木で渡し場をつくり馬を渡したことから、馬渡橋と名付けられた、と伝える。

近くに新田義貞が構築した対城「灯明寺城」跡の比定地


「黒丸城」に対する対城「灯明寺城」の跡地と伝えるー白山神社は、
(中角街道の)「馬渡橋」から北へまもなく東沿いにあります(写真右側)


 「藤島の戦い」とは、延元3年/暦応元年(1338)、越前国藤島(福井市)で行われた南朝軍・新田義貞と北朝軍・斯波高経の戦い。

 現在、(中角街道の)「馬渡橋」から北へ進むと東沿いに「白山神社」がみえますが、この境内は、高経拠る黒丸城(福井市黒丸町=やや北西方向約2.5キロ)攻略のため義貞が構築した一時的対城(むかいじょう)ー「灯明寺城」跡地と伝える。
 ここから約1キロ南方には、新田義貞戦没伝承地(福井市新田塚1丁目)があります。



2022.11

「芝原用水」九ヶ用水の生命線
大溜め「井袋」、古来絵図新田神社北方


「新田神社」(写真上右)とその前を通る「芦原街道」。
古来伝わる九ヶ用水絵図には、
石碑のような絵に「新田塚」と表示されている。
「中角街道」はその前を通り過ぎて、西へ迂回し、
「井袋」左岸(南側)に沿って進んでいる。


「芦原街道」新田塚交差点の北側に流れている「九ヶ用水」
写真正面上やや左に
「九ヶ江用水改修記念碑」(竣工 昭和27年ー1952)がみえます。

 「芝原用水」最西端、九ヶ村(三ツ屋、地蔵堂、海老助、別所、上伏、安竹、土橋、黒丸、郡)に注ぐ九ヶ用水の「生命線」ーとも伝えられる大溜め「井袋」。
 その場所は、古来伝わる九ヶ用水絵図に描かれている「石碑のような絵に表示された新田塚」、「その前を過ぎて西へ迂回する中角街道」などから、芦原街道新田塚交差点北側に今も流れる「九ヶ用水」(藩政時代呼称九ヶ江用水)辺りではないか、と思われます。

川幅7間、両岸に東西380間
漏水防止堤防ー大溜め「井袋」

 
藩政時代(享保4年ー1719)九ヶ用水絵図によると、井袋の水を各村に流すー用水取入口は7本。
 左岸に「三ツ屋、地蔵堂」、「別所」、「海老助、上伏」ー3本のほか、北へ進む中角街道を横切り下流右岸(北側)に「郡」、そのもう少し下流西側に「安竹」、「黒丸」「土橋」ー3本が見え、7本の用水は、中角街道が新田塚を過ぎて井袋に沿う形で西へ迂回しているため、その街道を横切って各村へ注いでいる。

 一方、「中角街道」(三国街道、旧北陸道)は、新田塚の前を「北進」し、まもなく井袋左岸に沿って「西へ迂回」。南西に流れる「三ツ屋、地蔵堂」など3本の用水を横切りまもなく「北に進む」。
 さらに井袋を横切り「北進」。しばらくして「北東」へ進み、馬渡橋(うまわたりばし)を渡り川に沿って「北へ進む」。

明新マップ「中角街道」に、
大溜め「井袋」の風景思う


「北陸道道標地蔵」(写真やや右上正面でこちら南に向いている)。
右側道路「中角街道」で「馬渡橋」に向かう。
手前=安竹方向(写真左)へ流れる「九ヶ用水」と道路。


古来伝わる九ヶ用水絵図にも表示されている「馬渡橋」。
写真は右方向(北陸道道標地蔵)から「馬渡橋」を横切り、
まもなく川に沿って北へ進む。

 ところで、明新マップ(明新公民館発行)に掲載されている「中角街道」は、「新田神社」前を過ぎて西へ迂回し、南側に九ヶ用水が流れている「北陸道道標地蔵」(写真ー福井総合クリニック北東・現芦原街道から約100メートル)に向かい、そこから北東へ進み、「馬渡川」(うまわたりがわ)を横切り北へ進むー経路をたどっていますが、藩政時代九ヶ用水絵図をみると、共通した位置関係がある程度確認できます。
 例えば「石碑のような絵に新田塚と表示されている」、「中角街道がその前を通り過ぎて西へ迂回し北方向へ向かう」、「(ある地点で)北東へ進み馬渡橋を渡り川に沿って北へ進む」、「井袋が石碑のような絵に表示された新田塚の北方向にある」など。

 もっとも、地上の用水を地下に流すー芝原用水のパイプライン化に伴い、古くから流れる用水は次第に「なくなる」ともいわれ、寂しい思いがしますが、時には、各村へ注ぐ水の調整などー重要な役割を果たしてきた「井袋」の歴史を思い出し、往時を偲びたいものです。

取水口から井袋まで
蜿蜒(えんえん)曲折ー九ヶ用水

 
ちなみに、芝原用水の井袋までの経路は、九頭竜川取水口(松岡地籍)から西流し、東藤島二ツ口(中ノ郷地籍)で、福井城下飲料水「内輪用水」(御上水)と中藤島・西藤島の田地を灌漑する「外輪用水」に分流。
 さらに「外輪用水」は、東藤島三ッ口(堂島地籍)で、「五ヶ用水」(高柳、高木、舟橋、灯明寺、船橋の各村)と、「八ヶ用水」(「椗木〈じょうのき〉用水」または「椗木九ヶ用水」ー大願寺、幾久、経田、重藤、福万、八ツ島、上里、堀の宮、三郎丸の各村)、「九ヶ用水」(九ヶ江用水の九ヶ村)の3本に分かれる。
 その後九ヶ用水は、大和田(東藤島)の南方を西流し、高柳、高木(中藤島)の南方を通り、経田(旧円山西村)・重藤(西藤島)の北端を通り井袋まで蜿蜒(えんえん)曲折流れていたようです。


2022.10
 

写真でたどる「芝原用水」

藤島中学校前に広がる大型化水田
ー福井市八ツ島町(旧西藤島村)ー

古来美味しいお米の生産地と伝えられる旧西藤島村の
藤島中学前(福井市八ツ島町)に広がる大型化した水田

 古来美味しいお米の生産地ーと伝えられる旧西藤島村。その藤島中学校前(福井市八ツ島町)には、昭和63年(1988)に整備された大型圃場(大型化した水田)が広がっています。
 今年もたわわに実った稲穂をみるたびにうれしく思ったものですが、9月までに稲刈りを済ませた農家の方のホットした表情が目に浮かびそう。
 

芝原用水の恩恵受け良質米生産ー旧西藤島村

 ところで、お米作りには水が欠かせませんが、茶わん一杯のお米を作るのに多くて450キログラム(450キロリットル)の水が必要だという。
  古来九頭竜川(現永平寺町松岡地籍)から取水し、福井城下飲料水だけでなく福井市街地及び九頭竜川南側一帯に農業用水も供給してきたーと伝えられる「芝原用水」ですが、旧西藤島村もその恩恵を受けながら良質米を生産してきたようです(現在の取水口は九頭竜川鳴鹿)。 

四ヶ用水、今は八ツ島にだけ供給ー八ヶ用水合流

 案内板によりますと、(芝原用水内輪幹線の分流)「四ヶ用水」は八ツ島だけに流れていますが、以前は西堀、堀ノ宮、三郎丸にも流れていたという。
 八ツ島の大型化した水田には、(芝原用水外輪幹線の分流)「八ヶ用水」が福井県立博物館北側「藤島通り」を西進し、芦原街道大宮交差点を越えて間もなく「四ヶ用水」と合流して流れています。

八ツ島付近に、三ヶ用水、四ヶ用水、八ヶ用水

 一方、藤島中学校前から南側500メートルの間には、多くの住宅が立ち並び水田はほとんど見られなくなりましたが、現在も、歴史のある芝原用水の内輪幹線分流「四ヶ用水」、同外輪幹線分流「八ヶ用水」(「椗木〈じょうのき〉用水」または「椗木九ヶ用水」) 、(八ヶ用水の分流とも伝えられる)「三ヶ用水」が流れています。
 時には、往時に思いを馳せながらのどかな風景を楽しみたいものです。

 案内板によると、「三ヶ用水」は、牧ノ島、上里、堀ノ宮3村への農業用水(現在は上里のみ)。この後、新川や底喰川(そこばみ)と合流し、明治橋付近で日野川に流されているという。
 もっとも 、八ヶ用水の分流とも伝えられる「三ヶ用水」については、「開発(かいほつ)水田の落ち水が再利用されているのではないか」(芝原用水土地改良区)との見方もあります。
 

地域・項 目
福井市篠尾
法隆寺に匹敵する五重の塔、篠尾廃寺
ー白鳳期初めの巨大礎石、跡地に今も
福井市城戸ノ内
壮麗な国指定特別名勝「諏訪館跡庭園」
ー一乗谷朝倉氏庭園のうち最大規模ー
福井市宝永
福井藩主松平家の別邸「養浩館庭園」
福井市灯明寺
古来絵図に見える「馬渡橋」、「馬渡川」
ー橋名の起源、南北朝期ともー
福井市新田塚
「芝原用水」九ヶ用水の生命線、「井袋」
 ーその位置示す古来伝わる絵図ー
福井市八ツ島町
藤島中前に広がる大型水田ー旧西藤島村
ー古来芝原用水の恩恵受け良質米生産ー
福井市毛矢
正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」ー義貞所用という古兜と共に「藤島神社」宝物ー
福井市藤島町
誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(藤島荘)
福井市中角町
中世城館「中角館」、流通拠点の中核施設

福井市中角町
古来人々が好むような住環境=中角集落

藤島通り(福井市街地北部)
鎌倉初期大規模開発=開発など藤島荘故地
福井市大宮
福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守
福井市大宮、二の宮、新田塚
南北朝「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地・燈明寺畷ー
福井市幾久、大宮
南北朝期越中から藤島郷久末へー照厳寺
福井市大宮
南北朝期が起源=「重藤村」の村名
足羽山(福井市足羽)
主祭神が継体天王の式内社、足羽神社
福井市海老助町
平安期の「額田郷」
福井市、坂井市
絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
福井市
北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
福井市
平安期に創建、神明神社
福井市
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー福井市史(昭和版)
福井市
初代朝倉土佐守菩提寺、曹洞宗永春寺
福井県南越前町
日本遺産「河野の北前船集落」
福井市新田塚
国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
福井市黒丸町
小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町)
福井市藤島町
「藤島城址」
福井県坂井市
「新田義貞菩提所・称念寺」
足羽山(福井市毛矢)
「藤島神社」(福井市毛矢町)
福井市
朝倉氏一乗谷居城、早くて14世紀後半か
福井市黒丸町
越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に
福井県大野市
華やかに彩る「花桃」
 

2022.6
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鎌倉初期大規模開発=「藤島荘」故地

福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守


江戸期には「福万村」の鎮守として鎮座していたという。
本殿御垣内の一対の燈篭に手がかり。


 古くから「福万村」の鎮守として鎮座していたーという「福万白山神社(薬師神社)」(福井市大宮3丁目=芦原街道・大宮交差点付近南東側) 。

江戸期には現在地=本殿御垣内燈篭に手掛かり

 同神社参拝しおりによると、創立年月は不詳としていますが、本殿御垣内(みかきうち=拝殿の奥、神様の聖域)に残る一対の燈篭には、「天保6年嶋嵜彌八郎嗣、米岡加兵衛、菅沼與市郎寛次」と刻まれていることから、江戸期には「福万村」の鎮守として現在地に鎮座していたーと考えられています。

50世帯春山地区で活動=福万連合自治会

 「福万白山神社(薬師神社)」の現所在地は、江戸期「重藤村」地域になりますが、大宮3丁目の50世帯が「福万連合自治会」(福万自治会)の名称で、春山地区で自治会活動をしています。

後世に長く伝えたい「福万」の歴史

 南北朝期「福満名」が起源の「福万」ー。行政地名だけでなく停留所の名称にも見えなくなり寂しい限りですが、「福万白山神社(薬師神社)」の伝承とともに、「福万公園」や「福万連合自治会」(福万自治会)の名称を通じて、後世に長く「福万」の歴史を伝えていきたいものです。

2022        
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燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地「新田塚」  

南北朝期「福満名」起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没伝承地燈明寺畷ー


南北朝期「福満名(みょう)」が偲ばれる「福万公園」
(福井市二の宮5丁目)
 南北朝争乱期「藤島の戦い」で、南朝方・新田義貞が戦死した所と伝えられる通称・燈明寺畷(福井市新田塚町)。

 江戸期「越前国藤島郷福万村」(福井市二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)の北端に位置し、その村名の起源は、名田(みょうでん=開墾・買得などによる取得田地に取得者名を冠した田)「福満名」(ふくまんみょう)とされる。  南北朝期・観応3年(1352)の「妙香院宮御参院引付」には、「藤島庄内福満名被行之」とあるという。  福井市福万町の町名は今はなく惜しまれますが、「福万公園」に往時の「福満名」が偲ばれます。

2022.6
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一乗谷・朝倉遺跡 白山平泉寺

南北朝期、越中から藤島郷久末ー照厳寺
ー朝倉氏一向宗寺院追放など2度加賀へー


南北朝期の久末(幾久)「照厳寺」は、
福井県立博物館南側の幾久公園グラウンド東側にある
白山神社北側辺りに
あったという。


福井県あわら市の旧北陸道沿いにある
現在の「照厳寺」

 福井県あわら市(旧坂井郡金津町) の旧北陸道沿いにあって、毎年30年以上続く「蓮如上人御影道中」の休憩所の1つでもあるー浄土真宗大谷派・照厳寺(しょうごんじ)。

 嘉暦元年(1326)本願寺三世覚如の直弟行覚が越中国氷見(富山県氷見市)に開山し、応安7年(1374)二代目覚順が越前国藤島郷久末(幾久=福井市幾久町、大宮1丁目)に居住地を移したーと伝えられる。

 久末の照厳寺は、福井県立博物館(大宮2丁目)南側にある幾久公園グラウンド東側の白山神社北側辺りにあったという。
 その後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放、織田信長の一向一揆平定で、2度加賀国移住を余儀なくされるなど、各地を転々として現在地に至るーと伝えられる。

永正3年(1506)九頭竜川の戦い(総勢30万ともいう一揆軍と朝倉軍が九頭竜川を挟み激戦を交わし、一揆軍が大敗した)後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放で「加賀国」(石川県加賀市)へ。
永禄11年(1568)朝倉氏と一向一揆の和議で再び「久末」(幾久)へ。
天正3年(1575)織田信長の一向一揆平定で「加賀国二梨」(ふたつなし=石川県小松市)へ。
天正19年(1591)までに再々度「久末」(幾久)へーなど。
明和2年(1765)現在地に移る。久末住職は26代目。

 

2021.11
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越前で古墳期に「絹織物」生産 年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘

平安期に伊勢神宮を分祀創建、神明神社
ー北庄前身足羽御厨、伊勢神宮に絹献上

 延長2年(924年)伊勢神宮を分祀して創建された神明神社。

 神明神社御由緒略記によると、遠く越前国北庄(きたのしょう)3郷(現在の福井市中心部)は、足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり=幌ともいい室内に垂れ下げて覆い隠す布)を献上する領地だった。

 神宮の御領地のことを記した「神鳳鈔」(じんぽうしょう)にも「足羽御厨 上分絹七疋 口入二十疋、百八十丁」と見え、後々までも当地で生産された絹が神宮へ上納されていたことが知られるーという。

 
2021.5

北前船の日本海五大船主、右近家の邸宅
国重文・船主中村家邸宅も近く公開へ


右近家邸宅内
 北前船の日本海五大船主、右近家の邸宅。北前船資料館として一般に公開されています。
 右近家のある南越前町河野の船主集落は、日本遺産「北前船寄港地•船主集落」の一つ。
 同集落では現在、北陸有数の北前船主で国の重要文化財、中村家の邸宅も一般公開に向けて準備を進めています。

右近家邸宅
門の向こうに倉庫、その後ろが邸宅



河野北前船主通り
右側右近家邸宅
左側倉庫

2021.4.21
 

華やか「花桃」-大野市和泉、勝原の両地区
道の駅「越前おおの荒島の郷」
4月22日オープン

 
 日本百名山「荒島岳」の残雪を背景に、大野市和泉区のホテルフレアール広場で華やかに彩る「花桃」ー写真左
 「荒島岳」の麓にあるJR越美北線「勝原駅」(大野市)ー写真右