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福井散策

和服リフォーム フラメンコ
福井散策
いにしえを偲ぶ

 「ふるさと福井」を紹介しているページです。散策していて「もう少し知りたい」と思うなどー食指が動いた時、その思いをまとめて掲載し、安らぎのひと時を大切にしたいと思っています。
 ふるさとのいにしえを偲ぶ思いは、思い出のしみこんだ大切な和服ーを洋服にリフォームする思いと、相通じているような気がしますが、それはそれとして少しでも、「ふるさと福井」への思いをお伝えすることができれば幸いです。

国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町) 写真・動画 散策
中世城館「中角館」、流通拠点の中核施設      


2022.10
藤島中学校前に広がる大型化した水田
ー福井市八ツ島町(旧西藤島村)ー

古来美味しいお米の生産地と伝えられる旧西藤島村の
藤島中学前(福井市八ツ島町)に広がる大型化した水田

 古来美味しいお米の生産地ーと伝えられる旧西藤島村。その藤島中学校前(福井市八ツ島町)には、昭和63年(1988)に整備された大型圃場(大型化した水田)が広がっています。
 
今年もたわわに実った稲穂をみるたびにうれしく思ったものですが、9月までに稲刈りを済ませた農家の方のホットした表情が目に浮かびそう。 

芝原用水の恩恵受け良質米生産ー旧西藤島村

 ところで、お米作りには水が欠かせませんが、茶わん一杯のお米を作るのに多くて450キログラム(450キロリットル)の水が必要だという。
  古来九頭竜川(現永平寺町松岡地籍)から取水し、福井城下飲料水だけでなく福井市街地及び九頭竜川南側一帯に農業用水も供給してきたーと伝えられる「芝原用水」ですが、旧西藤島村もその恩恵を受けながら良質米を生産してきたようです(現在の取水口は九頭竜川鳴鹿)。 

四ヶ用水、今は八ツ島にだけ供給ー八ヶ用水が合流

 案内板によりますと、(芝原用水内輪幹線の支流)「四ヶ用水」は八ツ島だけに流れていますが、以前は西堀、堀ノ宮、三郎丸にも流れていたという。
 八ツ島の大型化した水田には、(芝原用水外輪幹線の支流)「八ヶ用水」が福井県立博物館北側「藤島通り」を西進し、芦原街道大宮交差点を越えて間もなく「四ヶ用水」と合流して流れています。

八ツ島付近に、芝原用水の3本の支流 
 一方、藤島中学校前から南側500メートルの間には、多くの住宅が立ち並び、水田はほとんど見られなくなりましたが、現在も、歴史のある芝原用水の3本の支流(八ヶ用水、四ヶ用水、三ヶ用水)が流れています。
 
時には、往時に思いを馳せながらのどかな風景を楽しみたいものです。
 案内板によると、「三ヶ用水」は、牧ノ島、上里、堀ノ宮3村への農業用水。この後、新川や底喰川(そこばみ)と合流し、明治橋付近で日野川に流されているという。
 
芝原用水土地改良区によると、三ヶ用水は、「開発」(かいほつ)水田の落ち水が再利用されており、現在は上里だけで利用されているという。 

2022.8
国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
「正中の変」勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜と共に「藤島神社」宝物ー

福井市民のオアシスとして親しまれている
足羽山の中腹に鎮座する「藤島神社」(福井市毛矢)

 藤島神社(福井市毛矢、祭神新田義貞―清和源氏新田家本宗家の8代目棟梁)の宝物と言えば、義貞のものとおぼしき「古兜・鉄製銀象嵌冑鉢(ぎんぞうがんかぶとばち国の重要文化財)」が広く知られていますが、後醍醐天皇が討幕の兵を挙げようとしたー正中元年(1324)9月19日「正中(しょうちゅう)の変」勃発を伝えた古文書「結城宗広(ゆうきむねひろ)の書状」(国の重要文化財)などにも目向け、改めて往時を偲びたいものです。
勃発の一報、鎌倉で知り息子に伝えるー宗弘

 福井市史によると、「正中の変」勃発の報は、7日後の26日に鎌倉に達し、「当今御謀叛の由其の聞え候」といわれている、としているが、この書状は、陸奥(むつ)白河(福島県)を本拠地に活躍した南北朝期の有力武将・宗広が、その報を鎌倉で知り、(即その日付で)息子の親朝に伝えたもの、とされる。

後醍醐の幕府討伐計画事前に露見=正中の変
ー六波羅の兵、土岐・多治見宿所急襲し殺害ー

 「正中の変」は後醍醐天皇の幕府討伐計画が事前に露見して失敗した政争。
 文保2年(1318)3月即位後、天皇の親政(王政)を目指す後醍醐は、諸政の刷新を妨げる最大の障害が鎌倉の武家政権ーとして、側近の参議・日野資朝(ひのすけとも)らと幕府討伐のための挙兵を企てていたが、密告によりそれが事前に発覚した。
 このため、六波羅探題(鎌倉幕府の地方機関)の兵は9月19日、後醍醐方の土岐頼兼(ときよりかね)と多治見国長(たじみくになが)の京都宿所を急襲して殺害。日野資朝らは謀議の中心人物として幕府に捕えられた。
 しかし、後醍醐は関東に陳謝して責を免れ、元弘元年(1331)に再び挙兵を企て、それは鎌倉幕府の滅亡へとつながっていった、と伝える。

古兜出土地を義貞戦死地に治定=藩主松平光通
ー石碑建立・顕彰、ここに藤島神社創祀の源泉ー

 もっとも、新田義貞のものとおぼしき古兜の出土地については、「太平記」によれば、手負いの実験をしていた南朝方の義貞が灯明寺前から藤島城に向かったところ、通称・灯明寺畷(「福万村」北端の「灯明寺村」境付近)で、黒丸城から進軍してきた北朝方の細川出羽守、鹿草彦太郎の軍勢に遭遇。
 一方、万治3年(1660)には、福井藩主・松平光通が古兜の出土地(通称・灯明寺畷=福井市新田塚)を新田義貞戦死地に治定(じじょう=決定)して、この地に「新田義貞戦死此所(にったよしさだせんしこのところ)」と刻した石碑を建て顕彰した。
「藤島神社創祀(そうし)の源泉はここにある」といわれるのは、このような背景があります。


2022.8
 
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に=福井市史(昭和版)
誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(後の藤島荘)
―義仲説、頼朝説、頼朝追認説ー

平安期の頃、「中ノ郷」の「一保」として、
発生したのが起源とされる「福井市藤島町」。

 平安期の頃、「中ノ郷」(郷は50戸で構成。1戸は郷戸ー10人前後から100人以上といい、少なくとも当時の東藤島一帯が呼ばれていたと見られる)の「一保」(保は5戸で構成)として発生したーとされる「藤島保」(藤島領ともいう。後の荘園「藤島庄」=福井市藤島町)。

 吾妻鏡(あづまかがみー鎌倉幕府の史書)建久元年(1190)4月19日記事には、「藤島保、以牒状触平泉寺」とあり、そのころ既に「平泉寺領で世に知られていた」というが、「誰が平泉寺に寄進したのか」ーについては「源義仲説」「源頼朝説」「(義仲寄進を)頼朝追認説」の諸説あり、興味が尽きない。

「頼朝寄進」と見るも「義仲藤島7郷寄進」併記
ー吾妻鏡など重視、福井県史・福井市史―

 福井県史・福井市史などは、平家物語に見える「義仲の藤島7郷寄進」を併記しているものの、吾妻鏡や門葉記(もんようきー延暦寺青蓮院の記録)などの史料を重視して「頼朝が平家没官領(へいけもっかんりょう)を寄進した」との記述が目につく。
 今後は、県史・市史の記述に沿って「頼朝寄進説」が一般的見方になりそうですが、一方では「義仲の寄進を頼朝が追認」(福井県の地名ー平凡社)との見方もあることから、今後の研究動向を見守りたいものです。  福井県史はこの件に関し、「藤島荘は、平家没官領(へいけもっかんりょう)として頼朝が領知(領有して支配)していたが、白山権現の神膳に充てるため、平泉寺(大野郡)に寄進された」としている。
平家没官領、義仲・行家へ最終的に頼朝=福井市史
 一方この件について福井市史も、藤島保は「平家没官領」(へいけもつかんりょう=寿永2年・1183都落ち以来朝敵として没収された全国500余ヶ所という平家一門所領)として、「頼朝が平泉寺に寄進した」といい、
 平家没官領ついては「後白河法皇が源義仲・源行家に与えたが、最終的には頼朝のものになった」としている。
藤島助近相伝私領、本領主平重盛とも=藤島保
ー平家方助近加賀で戦死、頼朝支配にー

 また、頼朝が平泉寺に寄進したーとされる平家没官領・藤島保について福井市史は、「藤島保」は、右衛門尉・藤島助近(有名な利仁将軍の子で武士団集団斎藤党等の祖・藤原叙用の6代目助宗【河合斎藤の始】の4代目)相伝の私領で、本領主は平重盛ともいわれる。

 平家方助近は、「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」(富山・石川の県境)後の「篠原の合戦」(石川県加賀市)で戦死したため、所領は没収され頼朝の支配となり、「頼朝は藤島保を白山権現に長日供料田(ちょうじつくりょうでん)として寄進した」としている。

平家物語の「藤島7郷」、存在疑わしい
ー史料で確認は上・下郷と高木郷のみー

 もっとも、木曽義仲が寿永2年(1183)「倶利伽羅谷の戦い」大勝謝恩のため平泉寺に寄進したとされるー平家物語に見える「藤島7郷」について福井市史は、「これが藤島の庄となり、藤島郷の地名になった」いうが、史料で確認できるのは上郷・下郷の2郷と高木郷だけーとして、「こうした郷(藤島7郷)があったのか非常に疑わしい」としている。

頼朝寄進、義仲打倒後「追認」との見方も
 ただ、福井県の地名(平凡社)はこの件について、義仲、頼朝それぞれが寄進したとされる「藤島荘」が、同一のものであるとすれば、「頼朝の寄進は、義仲打倒後、その寄進を追認する形で行われたことになるだろう」としている。

2022.7
 
古来人々が好むような住環境 =中角集落
中世城館を含む「福井のお城」
中世の城館「中角館」、流通拠点構築の中核施設
ー堀割による土地区画に注目ー

えちぜん鉄道「中角駅」東側。
「多知」地籍は「中角館」跡の比定地。

写真=上下に延びる右側道路の右端、館囲む環濠(約9メートル)の南端境界とみられる。
南端境界から北へ約90メートルが環濠北端境界とみられる。
写真=右下角(公園に大木) あたりが環濠東端境界とみられる。
東端境界から西へ(駅方面)約54メートルが環濠西端境界とみられる。

 九頭竜川北岸に位置し古来渡船場として交通の要衝だった中角集落(福井市中角町)の「多知」地籍(えちぜん鉄道中角駅東側)ー。
 この地籍は、朝倉氏家臣・乙部勘解左衛門(おとべかげゆざえもん)の居城とされるー中世の城館「中角館」跡の比定地。
中角館の多面性に注目=本来の防御に流通機能

 中角館は、一帯に広く展開する荘園「河合庄」が流通拠点を中角集落に構築するため、「堀割による土地区画と水路網整備事業」の中核施設として建設したーと考えられており、特に堀割による土地区画が注目されている。
 もっとも、中世の城館は本来的には防御拠点ですが、それだけでなく流通機能を併せ持つ中角館の多面性にも注目したいものです。

  堀割構造、中角館起点に展開=集落全体に影響
ー自然堤防沿いに堀割と一体の水路網 ー

 具体的には、集落内の堀割構造は、堀割で構成されている「中角館」(南北72メートル、東西36メートル。周囲に幅9メートルの環濠巡る)を起点に展開し、集落全体に影響を及ぼしていた、と見られている。
また、(中角駅西側の)自然堤防沿いに整備された堀割と一体の水路網については、「集落内部と九頭竜川が(約120メートルの)水路で接続され、小舟による往来も可能になっていたと考えられる」という。

代官による館・渡船場整備後、乙部氏居城か

 中角館や渡船場の整備・造営については、斯波高経の子義将(よしゆき)が管領(かんれい)に就き康暦2年(1380)までに越前守護になった以降ー「越前国」経営が本格化してから、「河合庄を現地で管理する代官によってなされた」と考えられており、乙部氏が居城し河合庄の給人となって荘園管理を任されるのは、「それ以降のことであろう」という。

斯波氏絶大な権力掌握=流通拠点の大開発推進

 一方、斯波氏は、越前、信濃、加賀に続き、応永6年(1399)応永の乱の後には尾張、遠江の守護を獲得ー5国を領し、室町幕府の官領として絶大な権力を掌握。
 この時期に河合庄は、堀割による土地区画と水路網の整備を中心とした大規模な開発を推進して、陸運・水運を集約する流通拠点を構築。
中角集落は「言わば新興商業地」として「劇的な発展を遂げた」ーと考えられています。


2022.7
 
中世の城館「中角館」、 流通拠点構築の中核施設
古くから人々が好むような住環境=中角集落
―九頭竜川北岸に広がる中角遺跡の中心―

えちぜん鉄道「中角駅」西側に広がる長閑な夏の田園風景ー。
「ガタンゴトン」「ガタンゴトン」と通り過ぎるーローカル電車の響きに、
誘われる郷愁のひと時

 九頭竜川北岸に広がる「中角遺跡」の中心である中角集落(えちぜん鉄道中角駅付近)は、「古くから自然堤防上に人々が好んで住むような環境だった」と見られています。

 九頭竜川は、中世まで「崩河(くずれかわ)」と呼ばれるほどの「暴れ川」だったといいますが、発掘調査では流砂・流泥など「洪水の痕跡」は一切見られなかったことから、「古来より水害に対して比較的安全な地域であり続けたに違いない」という。

 これについては、自然堤防上の微高地であるため、洪水時も浸水が軽微で済み、排水性も比較的良好に機能していたーと考えられています。

弥生中期から古墳前期まで墓造られ土器も出土

  また、中角駅西側の発掘調査では、弥生中期から古墳前期まで約300年にわたりお墓が造られていたーことがわかり、土器がそのお墓の周りの溝から出土。また(お墓は未確認だが)縄文末期、古墳後期以降、古代(奈良・平安期)の土器も出土しているという。

 このことからも、古くからの人々の生活の営みが見えてくるようです。
中角館関係遺物多彩=豊かな生活―支配階層級関与

 このほか、上層から出土したという、中世の城館「中角館」跡(比定地中角駅東側「多知」地籍))関係と考えられる多彩な遺物にも注目したいものです。

 土器のほか多彩な遺物とは、輸入陶磁器、漆器、金属器など。「特に輸入陶磁器には天目茶碗や香炉がみられ、豊かな生活水準、相応の富裕層の存在を示している」といい、
「武士など当時の支配階層級が密接に関与していたと想定される」という。

地域・項 目
福井市八ツ島町
藤島中前に広がる大型水田ー旧西藤島村
ー古来芝原用水の恩恵受け良質米生産ー
福井市毛矢
正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」ー義貞所用という古兜と共に「藤島神社」宝物ー
福井市藤島町
誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(藤島荘)
福井市中角町
中世城館「中角館」、流通拠点の中核施設

福井市中角町
古来人々45が好むような住環境=中角集落

藤島通り(福井市街地北部)
鎌倉初期大規模開発=開発など藤島荘故地
福井市大宮
福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守
福井市大宮、二の宮、新田塚
南北朝「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地・燈明寺畷ー
福井市幾久、大宮
南北朝期越中から藤島郷久末へー照厳寺
福井市大宮
南北朝期が起源=「重藤村」の村名
足羽山(福井市足羽)
主祭神が継体天王の式内社、足羽神社
福井市海老助町
平安期の「額田郷」
福井市、坂井市
絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
福井市
北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
福井市
平安期に創建、神明神社
福井市
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー福井市史(昭和版)
福井市
初代朝倉土佐守菩提寺、曹洞宗永春寺
福井県南越前町
日本遺産「河野の北前船集落」
福井市新田塚
国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
福井市黒丸町
小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町)
福井市藤島町
「藤島城址」
福井県坂井市
「新田義貞菩提所・称念寺」
足羽山(福井市毛矢
「藤島神社」(福井市毛矢町)
福井市
朝倉氏一乗谷居城、早くて14世紀後半か
福井市黒丸町
越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に
福井県大野市
華やかに彩る「花桃」
 

2022.6
 
南北朝期越中から藤島郷久末へ ー照厳寺 福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守
南北朝期が起源=「福万村」ー北端に新田義貞戦没地 南北朝期が起源=「重藤村」
鎌倉初期大規模開発=開発など「藤島荘」故地4村
―荘官居館地「藤島」と用水で結ばれ一体化―


「藤島荘」荘官居館地はこの付近にあった、とみられている。
「西超勝寺」(福井市藤島町=藤島城址ともいわれる)



中世の読み方、今に伝える行政地名
「開発」(かいほつ)ですが、
公園名にも地名が残されている。
「開発公園」(福井市西開発3丁目)

藤島通り「重藤」信号交差点付近。
左側歩道下に(「芝原用水」の)
「八ヶ用水」が流れている。

 「藤島荘」の故地といわれ、鎌倉初期には大規模な開発が行われたーと伝えられる「開発」(かいほつ)など4村。

福井市街地北部の通称・「藤島通り」にあって、「開発」(福井市開発町、西開発1-4丁目)、「久末」(幾久=幾久町、大宮1丁目)、「重藤」(大宮3丁目、二の宮4丁目)、「福万」(二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)と東西に並ぶ。

 これらの地域には、江戸初期に大規模拡張・改修が行われた「芝原用水」の外輪(そとわ)支流、「八ヶ(はっか)用水」が今でも流れていますが、すでに鎌倉期には、「藤島荘」の中心で荘官居館地があったとみられているー「藤島」(藤島町)から4村までお互いが用水で結ばれ、東西の広い地域が荘園として一体化していた、と考えられています。

 この一体化について福井県史は、「東端の藤島が荘園名になっていることに象徴されるように、荘域の田地の維持を保証する用水の成立と維持に関係する、と思われる」との見解を示す。

 時には、(「芝原用水」の)「八ヶ用水」が流れる「藤島通り」を散策して、往時を忍ぶひと時を大切にしたいものです。

慈円、藤島荘収入勧学講費に=同荘開発も進める

 一方、鎌倉初期建久6年(1195)天台座主(比叡山の最高職)慈円(じえん)は、(源頼朝が寄進した)「藤島荘」からの収入で経費を賄う「勧学講」を延暦寺で開始。

 その後、建仁2年(1202)頃には、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき=皇族・公家が住職を務める特定の寺院)領「藤島荘」が成立したーという。 「藤島荘」の大規模な開発はこのような背景の中で進められた。

 この開発について福井市史は、「慈円自ら、新田を加作し地利を増し、満作の計略員を加う、と述べているように、鎌倉初期に大規模な開発がなされた」という。
 一方で福井県史は、「慈円は、(平泉寺・延暦寺の)本末関係を利用して藤島荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込でいった」と述べている。

鎌倉初期「藤島荘」年貢米4800石と絹綿3000両

 「藤島荘」の年貢とその配分について福井市史は、鎌倉初期・建暦2年(1212)の目録では、当時の藤島荘年貢は米4800石と綿(当時の綿は養蚕の産物の絹綿)3000両。

 米4800石のうち1000石は平泉寺に留保され、2800石が勧学講以下延暦寺山上や慈円の京都御堂の経費に充てられた。残り1000石が本家の無動寺(大津市)を官領する青蓮院門跡の本家の年貢。
 絹綿3000両は勧学講の経費1700両と本家分1300両に分けられたという。

中世の読み方、今に伝える「開発」(かいほつ)

 このように中世の歴史が伝わってくる「藤島通り」ですが、「藤島荘」由来の旧名が行政地名に残っているのは「開発」だけ。

 同荘の「名」(みょう=荘園・国衙領における年貢などの収納単位)に由来しているというー「久末」、「重藤」、「福万」の行政地名が見えなくなり残念に思いますが、住民からも惜しまれる声が聞こえてきそう。

 行政地名「開発」は藤島荘の開発に由来するもの。しかも、「かいほつ」という中世の読み方を今に伝える。

 「久末」については、照厳寺(しょうごんじ)2代目覚順が応安7年(1374)に越中国氷見から「吉田郡藤島郷久末邑(ひさまつむら)」に移住したーと伝えられる。

 「重藤」については、鎌倉初期この地域(後の重藤名)には、「藤島の荘」下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行う機関「下郷公文(くもん)」が置かれていた。

 福井県史によると、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)は、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えている、という。

 「福万」については、観応3年(1352)の妙香院宮御参院引付」には「…藤島庄内福満名被行之」と「福満名」の名前が見えるという 。


2022.6
 
鎌倉初期大規模開発=「藤島荘」故地
  福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守


江戸期には「福万村」の鎮守として鎮座していたという。
本殿御垣内の一対の燈篭に手がかり。


 古くから「福万村」の鎮守として鎮座していたーという「福万白山神社(薬師神社)」(福井市大宮3丁目=芦原街道・大宮交差点付近南東側) 。

江戸期には現在地=本殿御垣内燈篭に手掛かり
 同神社参拝しおりによると、創立年月は不詳としていますが、本殿御垣内(みかきうち=拝殿の奥、神様の聖域)に残る一対の燈篭には、「天保6年嶋嵜彌八郎嗣、米岡加兵衛、菅沼與市郎寛次」と刻まれていることから、江戸期には「福万村」の鎮守として現在地に鎮座していたーと考えられています。
50世帯春山地区で活動=福万連合自治会
 「福万白山神社(薬師神社)」の現所在地は、江戸期「重藤村」地域になりますが、大宮3丁目の50世帯が「福万連合自治会」(福万自治会)の名称で、春山地区で自治会活動をしています。
後世に長く伝えたい「福万」の歴史
 南北朝期「福満名」が起源の「福万」ー。行政地名だけでなく停留所の名称にも見えなくなり寂しい限りですが、「福万白山神社(薬師神社)」の伝承とともに、「福万公園」や「福万連合自治会」(福万自治会)の名称を通じて、後世に長く「福万」の歴史を伝えていきたいものです。

2022        
 
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地「新田塚」  
南北朝期「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没伝承地・燈明寺畷ー


南北朝期「福満名(みょう)」が偲ばれる「福万公園」
(福井市二の宮5丁目)

 南北朝争乱期「藤島の戦い」で、南朝方・新田義貞が戦死した所と伝えられる通称・燈明寺畷(福井市新田塚町)。

 江戸期「越前国藤島郷福万村」(福井市二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)の北端に位置し、その村名の起源は、名田(みょうでん=開墾・買得などによる取得田地に取得者名を冠した田)「福満名」(ふくまんみょう)とされる。

 南北朝期・観応3年(1352)の「妙香院宮御参院引付」には、「…藤島庄内福満名被行之…」とあるという。

 福井市福万町の町名は今はなく惜しまれますが、「福万公園」に往時の「福満名」が偲ばれます。


2022.6
 
一乗谷・朝倉遺跡 白山平泉寺
南北朝期、越中から藤島郷久末へー照厳寺
ー朝倉氏一向宗寺院追放などで2度加賀へー


南北朝期の久末(幾久)「照厳寺」は、
福井県立博物館南側の幾久公園グラウンド東側にある
白山神社北側辺りに
あったという。


福井県あわら市の旧北陸道沿いにある
現在の「照厳寺」

 福井県あわら市(旧坂井郡金津町) の旧北陸道沿いにあって、毎年30年以上続く「蓮如上人御影道中」の休憩所の1つでもあるー浄土真宗大谷派・照厳寺(しょうごんじ)。

 嘉暦元年(1326)本願寺三世覚如の直弟行覚が越中国氷見(富山県氷見市)に開山し、応安7年(1374)二代目覚順が越前国藤島郷久末(幾久=福井市幾久町、大宮1丁目)に居住地を移したーと伝えられる。

 久末の照厳寺は、福井県立博物館(大宮2丁目)南側にある幾久公園グラウンド東側の白山神社北側辺りにあったという。

 その後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放、織田信長の一向一揆平定で、2度加賀国移住を余儀なくされるなど、各地を転々として現在地に至るーと伝えられる。

永正3年(1506)九頭竜川の戦い(総勢30万ともいう一揆軍と朝倉軍が九頭竜川を挟み激戦を交わし、一揆軍が大敗した)後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放で「加賀国」(石川県加賀市)へ。
永禄11年(1568)朝倉氏と一向一揆の和議で再び「久末」(幾久)へ。
天正3年(1575)織田信長の一向一揆平定で「加賀国二梨」(ふたつなし=石川県小松市)へ。
天正19年(1591)までに再々度「久末」(幾久)へーなど。
明和2年(1765)現在地に移る。久末住職は26代目。



2022.3
 
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー福井市史(昭和版)
南北朝期が起源=「福万村」の村名
ー北端に新田義貞戦没地ー
南北朝期「重藤名」が起源=「重藤村」
ー鎌倉初期「藤島下郷公文」置かれるー


南北朝期「重藤名(みょう)」が偲ばれる「重藤公園」
(福井市大宮5丁目)

 南北朝期の名田(開墾・買得などで取得田地に取得者の名を冠した田)、「重藤名」(しげふじみょう)が起源とされる江戸期「越前国藤島郷重藤村」(福井市大宮3丁目、二の宮4丁目)。
この地には鎌倉初期、年貢米の管理・徴収を行う管理機関「藤島下郷公文(くもん)」が置かれていたとされる。

 「重藤名」について福井県史は、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)が、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えているーとしている。

 一方、「藤島下郷公文」は、「藤島の庄」上・下郷のうち、下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行い、(藤島城址とされる西超勝寺の地と伝えられる)同庄庄官の居館地「藤島」とともに、「藤島の庄」の中心を成していたーみられている。

 「藤島下郷公文」はその後、領主が度々変わったことから(鎌倉期とみられる頃に)廃絶され、南北朝初期にその跡地に名田(みょうでん)として開発されたーとされる。


2021.11
 
越前で古墳期に「絹織物」生産 平安期の福井中心部、伊勢神宮に絹献上
年貢の絹綿、全国屈指の量=藤島荘と坂北荘
ー鎌倉期の頃、盛んな養蚕の勢いー

 中世の頃、坂北荘(坂井市)とともに養蚕(蚕を育て繭をとる)が盛んだった藤島荘(福井市)ー。
鎌倉期には両荘とも、年貢として納める絹綿(きぬわた=原料に絹を用いた綿)は「全国屈指の量」(福井市史)に達していた。

 絹綿は米と並び、当時の代表的な年貢品目だったが、鎌倉初期の年貢絹綿は、藤島荘が三千両と越前でも突出し、坂北荘の場合は一万両で越前のみならず全国でも最大級。

養蚕の興隆、朝倉期の「軽物座」発生を促す
 この養蚕の盛んな勢いは、朝倉期の明応2年(1493)には、人家・商家が軒並み続く町場(市街地)が形成された「足羽3カ庄」に、軽物(絹布)の取引特権的集団「10人衆軽物座」の発生を促した。
中世以降、比較的高級な絹生産が盛んに
 中世以降、越前でも比較的高級な絹織物の生産が盛んになったーというが、永禄11年(1568)5月17日 、15代将軍足利義昭が朝倉義景館に御成した際には、義景は義昭に、練貫10面(縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)、白綿(当時の綿は養蚕産物の絹綿)を献上したーという。      足利義昭、朝倉義景館 御成に馳せる思い
全国的に高級品として定評、絹布や綿織物
ー朝倉氏、他国の原料直接買い禁止ー

 10人衆「軽物座」は、3カ庄はじめ一乗、三国などを商域に活動し、その後、3カ庄や三国などは城下町・港町として発展。

 当時、3カ庄で扱っていた絹布や綿織物は、高級品として領内ほか全国的にも定評があり、その原料となる糸・綿に他国の商人が注目したらしい。

 このため朝倉氏は、「他国の商人が直接生産者から糸・綿を買い付けることを禁止」(同)する措置を講じていた。

神宮領「足羽御厨」、伊勢神宮に絹織物を献上
 また一方では、北庄(現在の福井市中心部)前身の神宮領「足羽御厨」(あすわみくりや)は、伊勢神宮に「上分絹七疋・口入廿疋」を納入していたーというが、越前では早くから絹業が起こり、それが北庄中心の「軽物座」に発展したーとも考えられています。
 

2021.12
 
継体大王のロマン  
平安期「額田郷」比定地、福井市海老助町
―「和名類聚抄」の足羽群10ヶ郷の1つー
平安期「額田郷」の比定地、福井市海老助町
南北に流れる日野川の上(右岸)

 平安中期の足羽郡10ヶ郷の1つ、「額田郷」に比定(比較して推定)されている日野川右岸の福井市海老助町(えびすけちょう)。

 西藤島村史によると、同町が「額田郷」に比定されたのは、日野川の渡し(人・貨物を舟で向こう岸に渡す)が、古くから「糟溜」(ぬかたび)の渡しーと呼ばれていたことによる。

 延長年間(923-930)、源順(みなもとのしたごう)の日本最古・最大百科辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)によると、当時の足羽郡には草原郷、安味郷、中野郷、額田郷、足羽郷など10ヶ郷(高山寺本の和名抄は15ヶ郷)が記載されているという。

 額田郷のほか、草原郷は後の芝原の地、安味郷は旧藤島村舟橋の地、中野郷は旧東藤島中ノ郷、足羽郷は九十九橋南・足羽山麓の地ーと見られている。

額田、継体天皇孫・額田部皇女との関係か

 額田の地名の起こりについては、「足羽社記」から、継体天皇の孫・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=後の日本最初の女帝・推古天皇)と特別な関係があったとの見方もある。

 しかし一方では、江戸期地域誌「越前古名考」には、古代の海老助地方は「ぬか」と呼ばれ、ここに「足羽の田部」が置かれたので、その田部を「ぬかの田部」といわれ、それが転じて地名も「ぬかたべ」と呼ばれるようになり、さらに略して「ぬかた」というようになったーとあるらしい。

継体天皇後裔・足羽臣の田部の説も

 「足羽の田部」の足羽については、西藤島付近の有力豪族で継体天皇の後裔ともいう「足羽の臣」とし、「ぬか」の地の農民は、足羽の臣を族長(氏上=うじのかみ)とする「足羽の氏」の部民(べのたみ=隷属する民)となって、足羽の臣が管掌する「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に、農産物を生産し納めていたーとも考えられているようです。 

 足羽の臣は、継体天皇の皇女、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)の後裔で、代々足羽神社の神主であったと伝えられ、正倉院には、天平神護2年(766)足羽郡小領を示す文書が今も残っているという。

 ちなみに、大和朝廷の頃は、「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に収納する農産物を生産していた農民を「田部」といい、同族の集まりの「氏」(うじ)に隷属。また「族長」は自分の家族を中心に他の部族も支配したという。


2021.12
 
主祭神が継体天王の式内社、足羽神社
主祭神が継体天皇の式内社、足羽神社
朝廷に祀られていた大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を足羽山に勧請したのが起源とされる

 足羽神社(福井市足羽1丁目=足羽山の東北部山上)は、平安中期「延喜式」神名帳に記載されている式内社。

 主祭神は継体天皇。継体天皇が男大迹王(おほどのおう)として越前で活動していた頃、朝廷に祀られていた大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を足羽山に勧請したのが起源とされる。

 大宮地之霊は、坐摩神(いかすりのかみ)ともいい、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、波比祇神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)ー5柱神の総称。 

後を継体天皇の皇女、馬来田姫女に託す

 男大迹王(おほどのおう)が58歳で第26代天皇に即位した時、越前国を離れるに当たり、継体天皇の皇女、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)に斎主(神主)として後を託したーと伝えられています。


2021.11
 
  年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
ー足羽川と北陸道交わる交通の要衝ー

戦国期には「北庄大橋」と呼ばれた現在の「九十九橋」。
当時は左側・北詰より北庄中心部へ。または加賀(石川県)へ北陸道続く。
右側・南詰よりまもなく足羽山麓を南(左)へ北陸街道が続く。

 延徳3年(1491)、越後(新潟県)に向かう「冷泉為広(れいぜいためひろ)卿(高位の官職)の日記」には、「石バ百八間ノ橋アリ」とあるらしいー。

 この日記によると、戦国大名・朝倉氏が越前を治めていた頃には、足羽川と北陸道が交わる交通の要衝に、長さ「108間」という越前唯一の北庄大橋(現在の九十九橋)が架けられていたーという。

北庄大橋、戦乱多く経済的にも困難期の架橋
ー最も利益を得た「軽物座10人衆」に注目ー
 ただ、その頃は戦乱の絶えない戦国期だけに、大きな河川の架橋は、防衛上だけでなく経費的にも困難が伴う、大変な土木工事だったに違いない。

 それだけに、大橋架橋が「朝倉氏の交通政策だけでは説明できない」という。
 そこで注目されているのが、「足羽3カ庄」を中心に活動し最も利益を得ていた絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」。
「足羽3カ庄」の町場形成、北庄大橋が紐帯
ー朝倉氏直接支配し商業・経済機構掌握ー

 「足羽3カ庄」は、北庄大橋が紐帯(ちゅうたいー結びつけ機能させるもの)となり、3集落=北庄(足羽北庄)・石場(社荘)・木田(木田荘)が、人家・商家の家並みが連続する1町場(市街地)を形成。

 その後も3カ庄は府中(越前南部の経済商業都市)とともに、越前北部の重要な経済都市として発展したといい、特に朝倉氏は、「足羽3カ庄」を直接支配下に置いて領国内の商業・経済の仕組みを掌握したーという。

10人衆の財力、大橋の建設・維持費に関与か

 このような背景から、絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」の財力が、北庄大橋の建設・維持費に関与していたーとみられています。


2021.11
 
越前で古墳期に「絹織物」生産 年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
平安期に伊勢神宮を分祀して創建、神明神社
ー北庄前身・足羽御厨、伊勢神宮に絹献上 ー

 延長2年(924年)伊勢神宮を分祀して創建された神明神社。

 神明神社御由緒略記によると、遠く越前国北庄(きたのしょう)3郷(現在の福井市中心部)は、足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり=幌ともいい室内に垂れ下げて覆い隠す布)を献上する領地だった。

 神宮の御領地のことを記した「神鳳鈔」(じんぽうしょう)にも「足羽御厨 上分絹七疋 口入二十疋、百八十丁」と見え、後々までも当地で生産された絹が神宮へ上納されていたことが知られるーという。

 

2021.7
 
誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(後の藤島荘)
源義仲「藤島7郷」平泉寺に=藤島の庄の起源
ー倶利伽羅峠の戦い大勝で、福井市史(昭和版)ー

 倶利伽羅峠(くりからとうげ=富山県と石川県の境にある砺波山の峠)の戦いで平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の大軍に大勝した源義仲(みなもとのよしなか)は、平泉寺へ「藤島の7郷」(旧東藤島、中藤島、西藤島の各村、および円山西の各村=藤島郷42村)を寄進。

 これが「藤島の庄」の起こりといい、のちの、南北朝時代の戦いに大きな影響を与えたといわれています。

 源平時代(12世紀後半)、「越前の戦い」で源軍は、燧ケ城(ひうちがじょう=越前国今庄)にたてこもったが、城中指揮官・平泉寺長吏(ちょうり=最高指導者)の平軍への寝返りに遭い城は陥落し、平軍はまもなく越前・加賀を平定。

 しかしその後、義仲軍は巻き返しを図り、倶利伽羅峠の平軍との戦いで大勝した。

 このあと永平寺長吏は処刑されたが、義仲は、「予想以上の大勝利は全くの神霊の加護によるもの」として、平泉寺に対しては、越前藤島7郷を寄進したと伝えられています。


「藤島郷42村」(福井市史)

開発村、新保村、大和田村、堂島村、下中村 、上中村、原目村、中ノ郷村、泉田村、藤島村、鍛冶町村、林村、北野上村、北野下村、中新田村、下新田村、寺前村、高柳村、経田村、重藤村、町屋村、大願寺村、幾久村、高木村、舟橋村、舟橋新村、灯明寺村、福万村、牧野島村、上里村、八ッ島村、別所村、郡村、黒丸村、土橋村、安竹村、上伏村、海老助村、地蔵堂村、三ッ屋村、西堀村、堀ノ宮村


2021.11
 
勝虎城、黒丸城の北東重要拠点  
初代朝倉土佐守の菩提寺、曹洞宗・永春寺
ー舟橋を世襲で管理した四王天家もー
 遠江守・頼景は、南北朝期に北朝方・斯波高経に従い越前入りした広景を祖とするー越前朝倉の4代目、為景(貞景)の子で、北庄(きたのしょう=福井の旧称)に居館した初代・朝倉土佐守。北庄氏とも称す。

 永春寺は江戸期に福井城拡張の際、本丸付近から寺町(石場寺町ともいう。現つくも二丁目)に移転。

 また四王天(しほうでん)家の菩提寺でもある。同家は南北朝の「勝虎城」(しょうとらじょう)を奉行所に、北陸街道の九頭竜川舟橋(福井市)を世襲で管理。

 元祖・又兵衛政実は、明智光秀に仕え本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとされる。


2021.12
一乗谷・朝倉遺跡
朝倉氏の一乗谷居城、早くて14世紀後半か
ー少なくとも15世紀初頭に遡るー

 朝倉氏の一乗谷居城は文明3年(1471)ーともいわれていますが、その居城の時期は早くて14世紀後半、少なくとも15世紀初頭にそれぞれ遡ると考えられています。

 これについて福井市史は、朝倉氏の一乗谷在城は少なくとも、越前朝倉4代目・為景(貞景)の15世紀初頭までさかのぼるものと思われる、とし、一方では、同2代目・高景が貞治5年(1366)の一乗谷・宇坂荘地頭職保有を機に、一乗谷を根拠地にした可能性が高い、とも述べています。

孝景の父、教景も早くから一乗城麓に居館
ー南陽寺比丘尼の安原荘代官職も根拠にー

 15世紀初頭とする根拠の1つは、宝徳2年(1450)に死没した越前朝倉7代・孝景(一乗谷朝倉初代)の父、教景(家景)も一乗城の麓に居館していたこと。

 また、朝倉氏の客館・一乗谷南陽寺は、応永11年(1404)に死没した同3代・氏景(大功)の妻女(天心清祐大姉)が創建し、代々朝倉氏の子女が入寺する尼寺となったといい、朝倉氏一族の女子とみられる「南陽寺比丘尼(びくに)」が、足羽郡安原荘の代官職を勤めていたーいうことも根拠の1つに。

従来の説、孝景、文明3年(1471)一乗谷居城

 これまでは、南北朝の争乱期、北朝方・斯波高経に従い越前で戦った越前朝倉初代・広景は、藤島の戦い後、黒丸城(福井市黒丸町)を居城とし、孝景が文明3年(1471)に居城を黒丸から一乗谷に移した、といわれています。                      ページトップ


一乗谷・朝倉遺跡
越前朝倉氏初代広景、 黒丸城主に
−一乗谷に移るまで 6代130年間 居城−

 越前朝倉氏の初代朝倉広景は、南北朝期に足利一門の有力武将・斯波氏に従って越前に入国ー南朝方新田義貞軍と戦い、そののち黒丸城主(福井市黒丸町)になったされる。
 これが越前朝倉氏の起こりとされ、初代広景から一乗谷へ移るまでの約130年間6代にわたり黒丸城を居城にしていたと伝えられる。

黒丸城は福井市黒丸町=三宅町説は誤り

 福井県の地名(平凡社)によると、黒丸城(福井市三宅町)説について「従来、南北朝期に越前に入国した朝倉広景以来、一乗谷へ移るまでの6代130年間、朝倉氏の居城とされていたが、近年の研究によって、これが誤りであることが指摘された」とし、その上で「近年、城跡より五輪塔が何基か発見されていることから『越前国名勝志の俗説二朝倉ノ時代祈願所寺院ノ跡トモ云う』が正しいかもしれない」としています。

(従来の説=黒丸城については、大黒丸城(福井市三宅町)と小黒丸城(福井市黒丸町)の複数の説があって、越前朝倉氏の初代広景は、新田義貞軍との戦いの功により大黒丸城主になったといい、一方では6代孝景が一乗谷に移った時は、大黒丸が本城で小黒丸は支城だったーとも考えられていたようです)

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2021.5
北前船の日本海五大船主、右近家の邸宅
国重文・船主中村家邸宅も近く公開へ

右近家邸宅内
 北前船の日本海五大船主、右近家の邸宅。北前船資料館として一般に公開されています。
右近家のある南越前町河野の船主集落は、日本遺産「北前船寄港地•船主集落」の一つ。
同集落では現在、北陸有数の北前船主で国の重要文化財、中村家の邸宅も一般公開に向けて準備を進めています。

右近家邸宅
門の向こうに倉庫、その後ろが邸宅



河野北前船主通り
右側右近家邸宅
左側倉庫

2021.4.21
 
華やかに彩る「花桃」-大野市和泉、勝原の両地区
道の駅「越前おおの荒島の郷」4月22日オープン
 日本百名山「荒島岳」の残雪を背景に、大野市和泉区のホテルフレアール広場で華やかに彩る「花桃」。「荒島岳」の麓にあるJR越美北線「勝原駅」(大野市)。


               
 

正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」―
義貞所用という古兜共に「藤島神社」宝物
藤島の戦いの舞台となった藤島城址
「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
ー「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー
黒丸城の北東重要拠点、勝虎城
南北朝「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地・燈明寺畷ー
「黒丸城址」 新田義貞菩提所・称念寺
伝承地で静かに伝えられている新田義貞公をたたえる歌
国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社

 国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)です。

 江戸時代の明暦2年(1656)、農民がこの地の水田から新田義貞のものと思われる古兜(国重文)を見つけたことから、福井藩主4代松平光通(みつみち)が万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」の碑を建立。

 それ以来この地は「新田塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 新田義貞のものとされる兜(国重文)は、江戸時代の初期、灯明寺畷(福井市新田塚)の泥田で近くの農民が発見し、それを福井藩士の井原番右衛門が新田義貞のものと鑑定。

 鑑定結果は、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中を守護するという三十番の神号が沈刻してあったこと、義貞が暦応元年(1338)閏7月2日に兜が発見された付近で戦死したと伝えられていることーなどが決め手になったと伝えられています。


朝倉氏一乗谷居城、早くて14世紀後半か
  越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に 一乗谷・朝倉遺跡
黒丸城址(福井市黒丸町)

 小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町)です。石碑が建っているだけですが、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあります。

 海運交通の重要な拠点だったことから、「(北朝方斯波)高経が築いた足羽7城の中でも随一の堅固を誇っていた」(石碑の説明)と伝えています。
 黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていませんが、これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷に移るまで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。

 高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。 

藤島の戦いの舞台となった藤島城址 ー比定地複数説も超勝寺が相応ー
藤島城址(福井市藤島町)

 藤島城址(福井市藤島町、西超勝寺)です。

 義貞は、天台宗・灯明寺(福井市灯明寺の白山神社付近にあったという)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地付近で戦死したと伝えられています。

 案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。

新田義貞公墓所・称念寺(福井県坂井市)

 「新田義貞公墓所・称念寺」(福井県坂井市)です。

 境内案内板によると、浪人中の明智光秀公が「称念寺」を訪ねたのが1562(永禄5)年。そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。

 江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。

 南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの「長崎称念寺」に埋葬したと伝えられています。

 境内に入ると立派な唐門がみえますが、その奥に義貞のお墓があります。唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されました。

 これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。

 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。

 新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。

 義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。

正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜共に「藤島神社」宝物ー
藤島神社(福井市毛矢町)

 新田義貞公を祭神とする藤島神社(福井市毛矢町)です。

 義貞のものとされる国重文の兜が保管されているほか、義貞直筆といわれる古文書が残っています。この古文書は、専門家が調査に訪れるなど関係者の高い関心を集めているそうです。       ページトップ