藤島の戦いで北朝方高経が立て籠った黒丸城
遺構痕跡期待し位置範囲確定急務―福井市史

南北朝争乱期に、越前平定と上洛を目指す南朝方新田義貞に追われ、北朝方斯波高経(足利高経)が立て籠った城として知られる黒丸城(小黒丸城/福井市黒丸町)。
藤島の戦いでみえる足羽7城の主郭とみられ、高経以後も越前朝倉初代・広景が居城したことから、福井市史は、なんらかの遺構の痕跡を残していることが十分考えられるとして、「それらの位置・範囲の確定が急がれる」と、発掘調査に手がつけられていない現状に懸念を示している。
黒丸城、足羽7城の中でも随一の堅固を誇る
馬場の名残りか、「ばんば」という古い地名
小黒丸(黒丸)城址は黒丸町の西側に立地。説明文には北西に(日野、九頭竜の)大川を控え、南東に深田をめぐらし、当時北朝方が築いた足羽7城の中でも随一の堅固を誇る城であったと伝える。
かつては、現城址より50メートルほど北方の水田台地に城跡を示す碑が立ち、その頃は濠の跡が一段低い水田となって残っていた。また「ばんば」という古い地名が今も伝えられているが、これは武士乗馬訓練・軍馬飼育を行う、「馬場(ばば/ばんば)」の名残りとみられる。
全国的お城ブーム、中世城館にも関心高まる
今後の黒丸城跡発掘調査に期待
全国的なお城ブームの中、近世の城郭だけでなく中世の城館(城)にも関心が高まっているといわれ、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」効果もあって一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内)に訪れる人が増えており、改めて今後の発掘調査に期待を寄せたいものです。
城の構え、黒丸城を中心とした足羽7城
勝虎城・北庄城など7つの城砦からなる
ところで、日野川、九頭竜川の合流地点に位置した主郭・黒丸城の構えは、黒丸城と北庄城、勝虎城を結ぶ地続きの範囲(福井市街地西部周辺)を堀割で幾重にも区切り、曲輪(堀・土塁・石垣で区画した土地)を築いたとみられ、黒丸城や勝虎城、北庄城など7つの城砦からなる曲輪が「(太平記にみえる足羽7城の)7つの城に相当するのではないか」(福井市史)という。
南北朝争乱、南朝と北朝が命運をかけて戦う。
建武の新政が武士の指示得られず
南北朝の争乱とは、鎌倉幕府討幕後、天皇政治復活を目指す後醍醐天皇の「建武の新政」が武士の指示を得られなかったため、北朝方(光明天皇)と南朝方(後醍醐天皇)が命運をかけて戦った争い。約60年間続いた。
義貞軍、越前国府攻略後勢いに乗る
高経軍を黒丸城に追い詰める
建武3年(1336)、京都で敗れた後醍醐天皇の命により、南朝方忠臣武将・新田義貞は、その皇太子(東宮)・恒良親王と尊良親王を奉じて越前に向かい、金ヶ崎城(敦賀市)に立て籠ったが落城。しかし先に脱出していた義貞は、各地に援軍を募り、越前国府(越前市)を攻略、優勢に転じた。
その頃、暦応元年になると、にわかに越前国北方(福井市域)が南北朝戦乱の舞台となり、石丸城(福井市石盛町)と波羅蜜城(はらめ/同原目町)、安居城(同下市町)、春近城(坂井郡春江町)、江守城(福井市江守中町)に兵を置き、足羽7城を包囲するように高経軍を黒丸城に追い詰めた。
一方、本陣を置いた石丸城には、大井田・風間など2万余騎の越後勢を加え、越前国内外から3万余騎が馳せ集まり、「その勢いあたかも雲霞のごとし」(太平記)。戦略的にはこの時点で京に攻めのぼるべきだったともいわれるが、義貞は高経軍一掃を目指した。
義貞灯明寺畷で致命傷負い、自害して果てる
射手をもたぬ劣勢に討たれる
総攻撃の日の暦応元年(1338)閏7月2日、義貞軍は九頭竜川を渡り、黒丸城に対する向かい城、灯明寺城(一時的城砦/白山神社)に移動。軍勢を7手に分けて黒丸城と他の足羽の城を分断して、その日のうちに高経軍の全拠点を一掃する計画だったらしい。
ところが意外にも、南朝に背いた平泉寺衆徒の立て籠る藤島城(福井市藤島町)が苦戦したため、それを不安視した義貞は夕刻、自ら僅か50余騎を率いて偵察・応援に向かったが、途中灯明寺畷(同新田塚町)で、夜襲をかけようと黒丸城から出陣した高経軍の藤島城応援部隊300余騎と遭遇し、射手をもたぬ劣勢に義貞の従者は討たれ、義貞も致命傷を負い、自害して果てたと伝える。
灯明寺城跡から南方へ約1キロメートル
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

灯明寺城跡から南方へ約1キロメートルの所に、燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)がある。
灯明寺畷から新田義貞着用の兜が出土
4代福井藩主松平光通が認定し石碑建立
江戸期の明暦2年(1656)、灯明寺畷から元応元年(1319)銘の刻字のある兜(鉄製銀象眼冑)が出土。この兜を第4代福井藩主・松平光通(みつみち)が、藤島の戦いで戦死した新田義貞のものと認め、万治3年(1660) この地に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と彫った石碑を建立した。
軍学者井原、兜鑑定・石碑建立を司る
兜鑑定・石碑建立について碑文や書籍などは、軍学者・井原番右衛門が鑑定して…と伝えていますが、これらを司ったのは、武器や軍記物語「太平記」に造詣の深い井原といわれる。
軍学者井原、義経流を指南、「忍之者(忍者)」も創設
ちなみに井原は、義経流では源義経より流儀伝来9代目といわれ、寛永20年(1643)3代福井藩主松平忠昌に召し抱えられ、義経流軍学を指南した。また、慶安2年(1649)には、「忍之者(しのびのもの)」を創設し、関東地方で機微の者から忍者を選抜。初代の「忍之者預り」に就く。福井藩には忍者が10人置かれていたという。
宗家朝倉氏一乗谷在城、15世紀初頭かー福井市史
黒丸城から政治的重要地、足羽北庄へ
南北朝の争乱期、斯波高経に従い黒丸城(福井市黒丸町)に入った越前朝倉初代・広景は、藤島の戦い後も黒丸城に在館。
延文2年(1357)2代高景が足利尊氏から足羽郡北庄の預所職に任命されると、鎌倉期に守護所が置かれたという政治的重要地、足羽北庄に、朝倉氏の根本地として代々居館した。
その後の宗家朝倉氏一乗谷在城については、「少なくとも4代朝倉為景(貞景)の15世紀初頭まで遡ると思われる」(福井市史)。
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