福井散策 和服リフォーム フラメンコ

新田義貞公を偲ぶー福井散策

正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」
― 義貞所用という古兜共に「藤島神社」
灯明寺城跡から南へ1キロ
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
 新田義貞菩提所・称念寺
南北朝「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地・燈明寺畷ー
伝承地で静かに伝えられている新田義貞公をたたえる歌
 
 「藤島の戦いで北朝方高経が立て籠った黒丸城
遺構痕跡期待し位置範囲確定急務―福井市史
 
黒丸城の北東重要拠点、勝虎城 
藤島の戦いの舞台となった藤島城址
ー比定地複数説も超勝寺が相応ー

2026年6月


藤島の戦いで北朝方高経が立て籠った黒丸城
遺構痕跡期待し位置範囲確定急務―福井市史


 南北朝争乱期に、越前平定と上洛を目指す南朝方新田義貞に追われ、北朝方斯波高経(足利高経)が立て籠った城として知られる黒丸城(小黒丸城/福井市黒丸町)。
 藤島の戦いでみえる足羽7城の主郭とみられ、高経以後も越前朝倉初代・広景が居城したことから、福井市史は、なんらかの遺構の痕跡を残していることが十分考えられるとして、「それらの位置・範囲の確定が急がれる」と、発掘調査に手がつけられていない現状に懸念を示している。

黒丸城、足羽7城の中でも随一の堅固を誇る
馬場の名残りか、「ばんば」という古い地名

 小黒丸(黒丸)城址は黒丸町の西側に立地。説明文には北西に(日野、九頭竜の)大川を控え、南東に深田をめぐらし、当時北朝方が築いた足羽7城の中でも随一の堅固を誇る城であったと伝える。
 かつては、現城址より50メートルほど北方の水田台地に城跡を示す碑が立ち、その頃は濠の跡が一段低い水田となって残っていた。また「ばんば」という古い地名が今も伝えられているが、これは武士乗馬訓練・軍馬飼育を行う、「馬場(ばば/ばんば)」の名残りとみられる。

全国的お城ブーム、中世城館にも関心高まる
今後の黒丸城跡発掘調査に期待

 全国的なお城ブームの中、近世の城郭だけでなく中世の城館(城)にも関心が高まっているといわれ、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」効果もあって一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内)に訪れる人が増えており、改めて今後の発掘調査に期待を寄せたいものです。

城の構え、黒丸城を中心とした足羽7城
勝虎城・北庄城など7つの城砦からなる


 ところで、日野川、九頭竜川の合流地点に位置した主郭・黒丸城の構えは、黒丸城と北庄城、勝虎城を結ぶ地続きの範囲(福井市街地西部周辺)を堀割で幾重にも区切り、曲輪(堀・土塁・石垣で区画した土地)を築いたとみられ、黒丸城や勝虎城、北庄城など7つの城砦からなる曲輪が「(太平記にみえる足羽7城の)7つの城に相当するのではないか」(福井市史)という。

南北朝争乱、南朝と北朝が命運をかけて戦う。
建武の新政が武士の指示得られず

 南北朝の争乱とは、鎌倉幕府討幕後、天皇政治復活を目指す後醍醐天皇の「建武の新政」が武士の指示を得られなかったため、北朝方(光明天皇)と南朝方(後醍醐天皇)が命運をかけて戦った争い。約60年間続いた。

義貞軍、越前国府攻略後勢いに乗る
高経軍を黒丸城に追い詰める

 建武3年(1336)、京都で敗れた後醍醐天皇の命により、南朝方忠臣武将・新田義貞は、その皇太子(東宮)・恒良親王と尊良親王を奉じて越前に向かい、金ヶ崎城(敦賀市)に立て籠ったが落城。しかし先に脱出していた義貞は、各地に援軍を募り、越前国府(越前市)を攻略、優勢に転じた。
 その頃、暦応元年になると、にわかに越前国北方(福井市域)が南北朝戦乱の舞台となり、石丸城(福井市石盛町)と波羅蜜城(はらめ/同原目町)、安居城(同下市町)、春近城(坂井郡春江町)、江守城(福井市江守中町)に兵を置き、足羽7城を包囲するように高経軍を黒丸城に追い詰めた。
 一方、本陣を置いた石丸城には、大井田・風間など2万余騎の越後勢を加え、越前国内外から3万余騎が馳せ集まり、「その勢いあたかも雲霞のごとし」(太平記)。戦略的にはこの時点で京に攻めのぼるべきだったともいわれるが、義貞は高経軍一掃を目指した。

義貞灯明寺畷で致命傷負い、自害して果てる
射手をもたぬ劣勢に討たれる

 総攻撃の日の暦応元年(1338)閏7月2日、義貞軍は九頭竜川を渡り、黒丸城に対する向かい城、灯明寺城(一時的城砦/白山神社)に移動。軍勢を7手に分けて黒丸城と他の足羽の城を分断して、その日のうちに高経軍の全拠点を一掃する計画だったらしい。
 ところが意外にも、南朝に背いた平泉寺衆徒の立て籠る藤島城(福井市藤島町)が苦戦したため、それを不安視した義貞は夕刻、自ら僅か50余騎を率いて偵察・応援に向かったが、途中灯明寺畷(同新田塚町)で、夜襲をかけようと黒丸城から出陣した高経軍の藤島城応援部隊300余騎と遭遇し、射手をもたぬ劣勢に義貞の従者は討たれ、義貞も致命傷を負い、自害して果てたと伝える。


灯明寺城跡から南方へ約1キロメートル
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社

 灯明寺城跡から南方へ約1キロメートルの所に、燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)がある。

灯明寺畷から新田義貞着用の兜が出土
4代福井藩主松平光通が認定し石碑建立

 江戸期の明暦2年(1656)、灯明寺畷から元応元年(1319)銘の刻字のある兜(鉄製銀象眼冑)が出土。この兜を第4代福井藩主・松平光通(みつみち)が、藤島の戦いで戦死した新田義貞のものと認め、万治3年(1660) この地に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と彫った石碑を建立した。

軍学者井原、兜鑑定・石碑建立を司る

 兜鑑定・石碑建立について碑文や書籍などは、軍学者・井原番右衛門が鑑定して…と伝えていますが、これらを司ったのは、武器や軍記物語「太平記」に造詣の深い井原といわれる。

軍学者井原、義経流を指南、「忍之者(忍者)」も創設

 ちなみに井原は、義経流では源義経より流儀伝来9代目といわれ、寛永20年(1643)3代福井藩主松平忠昌に召し抱えられ、義経流軍学を指南した。また、慶安2年(1649)には、「忍之者(しのびのもの)」を創設し、関東地方で機微の者から忍者を選抜。初代の「忍之者預り」に就く。福井藩には忍者が10人置かれていたという。


宗家朝倉氏一乗谷在城、15世紀初頭かー福井市史
黒丸城から政治的重要地、足羽北庄へ

 南北朝の争乱期、斯波高経に従い黒丸城(福井市黒丸町)に入った越前朝倉初代・広景は、藤島の戦い後も黒丸城に在館。
 延文2年(1357)2代高景が足利尊氏から足羽郡北庄の預所職に任命されると、鎌倉期に守護所が置かれたという政治的重要地、足羽北庄に、朝倉氏の根本地として代々居館した。
 その後の宗家朝倉氏一乗谷在城については、「少なくとも4代朝倉為景(貞景)の15世紀初頭まで遡ると思われる」(福井市史)。

2022.8

「正中の変」勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜と共に藤島神社の宝物ー



 藤島神社(福井市毛矢、祭神新田義貞―清和源氏新田家本宗家の8代目棟梁)の宝物と言えば、義貞のものとおぼしき「古兜・鉄製銀象嵌冑鉢(ぎんぞうがんかぶとばち国の重要文化財)」が広く知られていますが、後醍醐天皇が討幕の兵を挙げようとしたー正中元年(1324)9月19日「正中(しょうちゅう)の変」勃発を伝えた古文書「結城宗広(ゆうきむねひろ)の書状」(国の重要文化財)などにも目向け、改めて往時を偲びたいものです。
 
勃発の一報、鎌倉で知り息子に伝えるー宗弘 福井市史によると、「正中の変」勃発の報は、7日後の26日に鎌倉に達し、「当今御謀叛の由其の聞え候」といわれている、としているが、この書状は、陸奥(むつ)白河(福島県)を本拠地に活躍した南北朝期の有力武将・宗広が、その報を鎌倉で知り、(即その日付で)息子の親朝に伝えたもの、とされる。

後醍醐の幕府討伐計画事前に露見=正中の変
ー六波羅の兵、土岐・多治見宿所急襲し殺害ー

  「正中の変」は後醍醐天皇の幕府討伐計画が事前に露見して失敗した政争。 文保2年(1318)3月即位後、天皇の親政(王政)を目指す後醍醐は、諸政の刷新を妨げる最大の障害が鎌倉の武家政権ーとして、側近の参議・日野資朝(ひのすけとも)らと幕府討伐のための挙兵を企てていたが、密告によりそれが事前に発覚した。
 このため、六波羅探題(鎌倉幕府の地方機関)の兵は9月19日、後醍醐方の土岐頼兼(ときよりかね)と多治見国長(たじみくになが)の京都宿所を急襲して殺害。日野資朝らは謀議の中心人物として幕府に捕えられた。
 しかし、後醍醐は関東に陳謝して責を免れ、元弘元年(1331)に再び挙兵を企て、それは鎌倉幕府の滅亡へとつながっていった、と伝える。

古兜出土地を義貞戦死地に治定=藩主松平光通
ー石碑建立・顕彰、ここに藤島神社創祀の源泉ー

  もっとも、新田義貞のものとおぼしき古兜の出土地については、「太平記」によれば、手負いの実験をしていた南朝方の義貞が灯明寺前から藤島城に向かったところ、通称・灯明寺畷(「福万村」北端の「灯明寺村」境付近)で、黒丸城から進軍してきた北朝方の細川出羽守、鹿草彦太郎の軍勢に遭遇。
 一方、万治3年(1660)には、福井藩主・松平光通が古兜の出土地(通称・灯明寺畷=福井市新田塚)を新田義貞戦死地に治定(じじょう=決定)して、この地に「新田義貞戦死此所(にったよしさだせんしこのところ)」と刻した石碑を建て顕彰した。 「藤島神社創祀(そうし)の源泉はここにある」といわれるのは、このような背景があります。

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藤島城址(福井市藤島町)

 義貞は、天台宗・灯明寺(福井市灯明寺の白山神社付近にあったという)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地付近で戦死したと伝えられています。
 案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。
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新田義貞公墓所・称念寺(福井県坂井市)
 
 「新田義貞公墓所・称念寺」(福井県坂井市)です。
 境内案内板によると、浪人中の明智光秀公が「称念寺」を訪ねたのが1562(永禄5)年。そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。
 
 江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。  南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの「長崎称念寺」に埋葬したと伝えられています。

 境内に入ると立派な唐門がみえますが、その奥に義貞のお墓があります。唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されました。
 これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。 新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。

 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。
 新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。
 義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。
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藤島神社(福井市毛矢町)

 新田義貞公を祭神とする藤島神社(福井市毛矢町)です。
 義貞のものとされる国重文の兜が保管されているほか、義貞直筆といわれる古文書が残っています。この古文書は、専門家が調査に訪れるなど関係者の高い関心を集めているそうです。