|
2022.8 |
|
|
「正中の変」勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜と共に藤島神社の宝物ー |
福井市民のオアシスとして親しまれている
足羽山の中腹に鎮座する「藤島神社」(福井市毛矢)
|
藤島神社(福井市毛矢、祭神新田義貞―清和源氏新田家本宗家の8代目棟梁)の宝物と言えば、義貞のものとおぼしき「古兜・鉄製銀象嵌冑鉢(ぎんぞうがんかぶとばち国の重要文化財)」が広く知られていますが、後醍醐天皇が討幕の兵を挙げようとしたー正中元年(1324)9月19日「正中(しょうちゅう)の変」勃発を伝えた古文書「結城宗広(ゆうきむねひろ)の書状」(国の重要文化財)などにも目向け、改めて往時を偲びたいものです。 |
勃発の一報、鎌倉で知り息子に伝えるー宗弘 |
福井市史によると、「正中の変」勃発の報は、7日後の26日に鎌倉に達し、「当今御謀叛の由其の聞え候」といわれている、としているが、この書状は、陸奥(むつ)白河(福島県)を本拠地に活躍した南北朝期の有力武将・宗広が、その報を鎌倉で知り、(即その日付で)息子の親朝に伝えたもの、とされる。 |
後醍醐の幕府討伐計画事前に露見=正中の変
ー六波羅の兵、土岐・多治見宿所急襲し殺害ー |
「正中の変」は後醍醐天皇の幕府討伐計画が事前に露見して失敗した政争。
文保2年(1318)3月即位後、天皇の親政(王政)を目指す後醍醐は、諸政の刷新を妨げる最大の障害が鎌倉の武家政権ーとして、側近の参議・日野資朝(ひのすけとも)らと幕府討伐のための挙兵を企てていたが、密告によりそれが事前に発覚した。
このため、六波羅探題(鎌倉幕府の地方機関)の兵は9月19日、後醍醐方の土岐頼兼(ときよりかね)と多治見国長(たじみくになが)の京都宿所を急襲して殺害。日野資朝らは謀議の中心人物として幕府に捕えられた。
しかし、後醍醐は関東に陳謝して責を免れ、元弘元年(1331)に再び挙兵を企て、それは鎌倉幕府の滅亡へとつながっていった、と伝える。 |
古兜出土地を義貞戦死地に治定=藩主松平光通
ー石碑建立・顕彰、ここに藤島神社創祀の源泉ー |
もっとも、新田義貞のものとおぼしき古兜の出土地については、「太平記」によれば、手負いの実験をしていた南朝方の義貞が灯明寺前から藤島城に向かったところ、通称・灯明寺畷(「福万村」北端の「灯明寺村」境付近)で、黒丸城から進軍してきた北朝方の細川出羽守、鹿草彦太郎の軍勢に遭遇。
一方、万治3年(1660)には、福井藩主・松平光通が古兜の出土地(通称・灯明寺畷=福井市新田塚)を新田義貞戦死地に治定(じじょう=決定)して、この地に「新田義貞戦死此所(にったよしさだせんしこのところ)」と刻した石碑を建て顕彰した。
「藤島神社創祀(そうし)の源泉はここにある」といわれるのは、このような背景があります。 |