古(いにしえ)を偲ぶ ふるさと 和服リメイク フラメンコ

【古(いにしえ)を偲ぶ】ギャラリー木漏れ日

平安期の「額田郷」、福井市海老助町
ー継体天皇孫・額田皇女と関係
周辺散策へ
テーマ別 一乗谷・朝倉遺跡を歩く 白山平泉寺を歩く 新田義貞ゆかりの地ーふるさと
ふくいのお城ー中世の城館含む 継体大王を偲ぶ 熊川宿 越前朝倉の起こりーふるさと

 
周辺散策 2022.8
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に=福井市史(昭和版)

誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(後の藤島荘)
―義仲説、頼朝説、頼朝追認説ー

平安期の頃、「中ノ郷」の「一保」として、
発生したのが起源とされる「福井市藤島町」。

 平安期の頃、「中ノ郷」(郷は50戸で構成。1戸は郷戸ー10人前後から100人以上といい、少なくとも当時の東藤島一帯が呼ばれていたと見られる)の「一保」(保は5戸で構成)として発生したーとされる「藤島保」(藤島領ともいう。後の荘園「藤島庄」=福井市藤島町)。

 吾妻鏡(あづまかがみー鎌倉幕府の史書)建久元年(1190)4月19日記事には、「藤島保、以牒状触平泉寺」とあり、そのころ既に「平泉寺領で世に知られていた」というが、「誰が平泉寺に寄進したのか」ーについては「源義仲説」「源頼朝説」「(義仲寄進を)頼朝追認説」の諸説あり、興味が尽きない。

「頼朝寄進」と見るも「義仲藤島7郷寄進」併記
ー吾妻鏡など重視、福井県史・福井市史―

 福井県史・福井市史などは、平家物語に見える「義仲の藤島7郷寄進」を併記しているものの、吾妻鏡や門葉記(もんようきー延暦寺青蓮院の記録)などの史料を重視して「頼朝が平家没官領(へいけもっかんりょう)を寄進した」との記述が目につく。

 今後は、県史・市史の記述に沿って「頼朝寄進説」が一般的見方になりそうですが、一方では「義仲の寄進を頼朝が追認」(福井県の地名ー平凡社)との見方もあることから、今後の研究動向を見守りたいものです。

 福井県史はこの件に関し、「藤島荘は、平家没官領(へいけもっかんりょう)として頼朝が領知(領有して支配)していたが、白山権現の神膳に充てるため、平泉寺(大野郡)に寄進された」としている。

平家没官領、義仲・行家へ最終的に頼朝=福井市史

 一方この件について福井市史も、藤島保は「平家没官領」(へいけもつかんりょう=寿永2年・1183都落ち以来朝敵として没収された全国500余ヶ所という平家一門所領)として、「頼朝が平泉寺に寄進した」といい、
 平家没官領ついては「後白河法皇が源義仲・源行家に与えたが、最終的には頼朝のものになった」としている。

藤島助近相伝私領、本領主平重盛とも=藤島保
ー平家方助近加賀で戦死、頼朝支配にー

 また、頼朝が平泉寺に寄進したーとされる平家没官領・藤島保について福井市史は、「藤島保」は、右衛門尉・藤島助近(有名な利仁将軍の子で武士団集団斎藤党等の祖・藤原叙用の6代目助宗【河合斎藤の始】の4代目)相伝の私領で、本領主は平重盛ともいわれる。

 平家方助近は、「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」(富山・石川の県境)後の「篠原の合戦」(石川県加賀市)で戦死したため、所領は没収され頼朝の支配となり、「頼朝は藤島保を白山権現に長日供料田(ちょうじつくりょうでん)として寄進した」としている。

平家物語の「藤島7郷」、存在疑わしい
ー史料で確認は上・下郷と高木郷のみー

 もっとも、木曽義仲が寿永2年(1183)「倶利伽羅谷の戦い」大勝謝恩のため平泉寺に寄進したとされるー平家物語に見える「藤島7郷」について福井市史は、「これが藤島の庄となり、藤島郷の地名になった」いうが、史料で確認できるのは上郷・下郷の2郷と高木郷だけーとして、「こうした郷(藤島7郷)があったのか非常に疑わしい」としている。

頼朝寄進、義仲打倒後「追認」との見方も
 ただ、福井県の地名(平凡社)はこの件について、義仲、頼朝それぞれが寄進したとされる「藤島荘」が、同一のものであるとすれば、「頼朝の寄進は、義仲打倒後、その寄進を追認する形で行われたことになるだろう」としている。

周辺散策 2022.7
古来人々が好むような住環境 =中角集落

中世の城館「中角館」、流通拠点構築の中核施設
ー堀割による土地区画に注目ー

えちぜん鉄道「中角駅」東側。
「多知」地籍は「中角館」跡の比定地。

写真=上下に延びる右側道路の右端、館囲む環濠(約9メートル)の南端境界とみられる。
南端境界から北へ約90メートルが環濠北端境界とみられる。
写真=右下角(公園に大木) あたりが環濠東端境界とみられる。
東端境界から西へ(駅方面)約54メートルが環濠西端境界とみられる。

 九頭竜川北岸に位置し古来渡船場として交通の要衝だった中角集落(福井市中角町)の「多知」地籍(えちぜん鉄道中角駅東側)ー。
 この地籍は、朝倉氏家臣・乙部勘解左衛門(おとべかげゆざえもん)の居城とされるー中世の城館「中角館」跡の比定地。

中角館の多面性に注目=本来の防御に流通機能

 中角館は、一帯に広く展開する荘園「河合庄」が流通拠点を中角集落に構築するため、「堀割による土地区画と水路網整備事業」の中核施設として建設したーと考えられており、特に堀割による土地区画が注目されている。
 もっとも、中世の城館は本来的には防御拠点ですが、それだけでなく流通機能を併せ持つ中角館の多面性にも注目したいものです。

  堀割構造、中角館起点に展開=集落全体に影響
ー自然堤防沿いに堀割と一体の水路網

 具体的には、集落内の堀割構造は、堀割で構成されている「中角館」(南北72メートル、東西36メートル。周囲に幅9メートルの環濠巡る)を起点に展開し、集落全体に影響を及ぼしていた、と見られている。
 また、(中角駅西側の)自然堤防沿いに整備された堀割と一体の水路網については、「集落内部と九頭竜川が(約120メートルの)水路で接続され、小舟による往来も可能になっていたと考えられる」という。

 代官による館・渡船場整備後、乙部氏居城か

 中角館や渡船場の整備・造営については、斯波高経の子義将(よしゆき)が管領(かんれい)に就き康暦2年(1380)までに越前守護になった以降ー「越前国」経営が本格化してから、「河合庄を現地で管理する代官によってなされた」と考えられており、乙部氏が居城し河合庄の給人となって荘園管理を任されるのは、「それ以降のことであろう」という。

斯波氏絶大な権力掌握=流通拠点の大開発推進

 一方、斯波氏は、越前、信濃、加賀に続き、応永6年(1399)応永の乱の後には尾張、遠江の守護を獲得ー5国を領し、室町幕府の官領として絶大な権力を掌握。
 この時期に河合庄は、堀割による土地区画と水路網の整備を中心とした大規模な開発を推進して、陸運・水運を集約する流通拠点を構築。
中角集落は「言わば新興商業地」として「劇的な発展を遂げた」ーと考えられています。


周辺散策 2022.7
中世の城館「中角館」、 流通拠点構築の中核施設

古くから人々が好むような住環境=中角集落
―九頭竜川北岸に広がる中角遺跡の中心―

えちぜん鉄道「中角駅」西側に広がる長閑な夏の田園風景ー。
 「ガタンゴトン」「ガタンゴトン」と通り過ぎるーローカル電車の響きに、
誘われる郷愁のひと時

 九頭竜川北岸に広がる「中角遺跡」の中心である中角集落(えちぜん鉄道中角駅付近)は、「古くから自然堤防上に人々が好んで住むような環境だった」と見られています。

 九頭竜川は、中世まで「崩河(くずれかわ)」と呼ばれるほどの「暴れ川」だったといいますが、発掘調査では流砂・流泥など「洪水の痕跡」は一切見られなかったことから、「古来より水害に対して比較的安全な地域であり続けたに違いない」という。

 これについては、自然堤防上の微高地であるため、洪水時も浸水が軽微で済み、排水性も比較的良好に機能していたーと考えられています。

弥生中期から古墳前期まで墓造られ土器も出土

  また、中角駅西側の発掘調査では、弥生中期から古墳前期まで約300年にわたりお墓が造られていたーことがわかり、土器がそのお墓の周りの溝から出土。また(お墓は未確認だが)縄文末期、古墳後期以降、古代(奈良・平安期)の土器も出土しているという。

 このことからも、古くからの人々の生活の営みが見えてくるようです。
中角館関係遺物多彩=豊かな生活―支配階層級関与

 このほか、上層から出土したという、中世の城館「中角館」跡(比定地中角駅東側「多知」地籍))関係と考えられる多彩な遺物にも注目したいものです。

 土器のほか多彩な遺物とは、輸入陶磁器、漆器、金属器など。「特に輸入陶磁器には天目茶碗や香炉がみられ、豊かな生活水準、相応の富裕層の存在を示している」といい、
 「武士など当時の支配階層級が密接に関与していたと想定される」という。


周辺散策 2022.6
南北朝期越中から藤島郷久末へ
ー照厳寺
福万白山神社(薬師神社)
=福万村鎮守
南北朝期が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地ー
南北朝期が起源=「重藤村」

鎌倉初期大規模開発=開発など「藤島荘」故地4村
―荘官居館地「藤島」と用水で結ばれ一体化―


「藤島荘」荘官居館地はこの付近にあった、とみられている。
「西超勝寺」(福井市藤島町=藤島城址ともいわれる)



中世の読み方、今に伝える行政地名
「開発」(かいほつ)ですが、
公園名にも地名が残されている。
「開発公園」(福井市西開発3丁目)

藤島通り「重藤」信号交差点付近。
左側歩道下に(「芝原用水」の)
「八ヶ用水」が流れている。

 「藤島荘」の故地といわれ、鎌倉初期には大規模な開発が行われたーと伝えられる「開発」(かいほつ)など4村。

 福井市街地北部の通称・「藤島通り」にあって、「開発」(福井市開発町、西開発1-4丁目)、「久末」(幾久=幾久町、大宮1丁目)、「重藤」(大宮3丁目、二の宮4丁目)、「福万」(二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)と東西に並ぶ。

 これらの地域には、江戸初期に大規模拡張・改修が行われた「芝原用水」の外輪(そとわ)支流、「八ヶ(はっか)用水」が今でも流れていますが、すでに鎌倉期には、「藤島荘」の中心で荘官居館地があったとみられているー「藤島」(藤島町)から4村までお互いが用水で結ばれ、東西の広い地域が荘園として一体化していた、と考えられています。
 
 この一体化について福井県史は、「東端の藤島が荘園名になっていることに象徴されるように、荘域の田地の維持を保証する用水の成立と維持に関係する、と思われる」との見解を示す。

 時には、(「芝原用水」の)「八ヶ用水」が流れる「藤島通り」を散策して、往時を忍ぶひと時を大切にしたいものです。

慈円、藤島荘収入勧学講費に=同荘開発も進める

 一方、鎌倉初期建久6年(1195)天台座主(比叡山の最高職)慈円(じえん)は、(源頼朝が寄進した)「藤島荘」からの収入で経費を賄う「勧学講」を延暦寺で開始。
 
 その後、建仁2年(1202)頃には、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき=皇族・公家が住職を務める特定の寺院)領「藤島荘」が成立したーという。 「藤島荘」の大規模な開発はこのような背景の中で進められた。

 この開発について福井市史は、「慈円自ら、新田を加作し地利を増し、満作の計略員を加う、と述べているように、鎌倉初期に大規模な開発がなされた」という。
 一方で福井県史は、「慈円は、(平泉寺・延暦寺の)本末関係を利用して藤島荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込でいった」と述べている。

鎌倉初期「藤島荘」年貢米4800石と絹綿3000両

 「藤島荘」の年貢とその配分について福井市史は、鎌倉初期・建暦2年(1212)の目録では、当時の藤島荘年貢は米4800石と綿(当時の綿は養蚕の産物の絹綿)3000両。

 米4800石のうち1000石は平泉寺に留保され、2800石が勧学講以下延暦寺山上や慈円の京都御堂の経費に充てられた。残り1000石が本家の無動寺(大津市)を官領する青蓮院門跡の本家の年貢。
 絹綿3000両は勧学講の経費1700両と本家分1300両に分けられたという。

中世の読み方、今に伝える「開発」(かいほつ)

 このように中世の歴史が伝わってくる「藤島通り」ですが、「藤島荘」由来の旧名が行政地名に残っているのは「開発」だけ。

 同荘の「名」(みょう=荘園・国衙領における年貢などの収納単位)に由来しているというー「久末」、「重藤」、「福万」の行政地名が見えなくなり残念に思いますが、住民からも惜しまれる声が聞こえてきそう。

 行政地名「開発」は藤島荘の開発に由来するもの。しかも、「かいほつ」という中世の読み方を今に伝える。

 「久末」については、照厳寺(しょうごんじ)2代目覚順が応安7年(1374)に越中国氷見から「吉田郡藤島郷久末邑(ひさまつむら)」に移住したーと伝えられる。

 「重藤」については、鎌倉初期この地域(後の重藤名)には、「藤島の荘」下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行う機関「下郷公文(くもん)」が置かれていた。

 福井県史によると、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)は、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えている、という。

 「福万」については、観応3年(1352)の妙香院宮御参院引付」には「…藤島庄内福満名被行之」と「福満名」の名前が見えるという 。

周辺散策 2022.6
一乗谷・朝倉遺跡を歩く 白山平泉寺を歩く

南北朝期、越中から藤島郷久末へー照厳寺
ー朝倉氏一向宗寺院追放などで2度加賀へー


南北朝期の久末(幾久)「照厳寺」は、
福井県立博物館南側の幾久公園グラウンド東側にある
白山神社北側辺りに
あったという。


福井県あわら市の旧北陸道沿いにある
現在の「照厳寺」

 福井県あわら市(旧坂井郡金津町) の旧北陸道沿いにあって、毎年30年以上続く「蓮如上人御影道中」の休憩所の1つでもあるー浄土真宗大谷派・照厳寺(しょうごんじ)。

 嘉暦元年(1326)本願寺三世覚如の直弟行覚が越中国氷見(富山県氷見市)に開山し、応安7年(1374)二代目覚順が越前国藤島郷久末(幾久=福井市幾久町、大宮1丁目)に居住地を移したーと伝えられる。

 久末の照厳寺は、福井県立博物館(大宮2丁目)南側にある幾久公園グラウンド東側の白山神社北側辺りにあったという。

 その後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放、織田信長の一向一揆平定で、2度加賀国移住を余儀なくされるなど、各地を転々として現在地に至るーと伝えられる。

永正3年(1506)九頭竜川の戦い(総勢30万ともいう一揆軍と朝倉軍が九頭竜川を挟み激戦を交わし、一揆軍が大敗した)後、朝倉氏の一向宗寺院越前追放で「加賀国」(石川県加賀市)へ。
永禄11年(1568)朝倉氏と一向一揆の和議で再び「久末」(幾久)へ。
天正3年(1575)織田信長の一向一揆平定で「加賀国二梨」(ふたつなし=石川県小松市)へ。
天正19年(1591)までに再々度「久末」(幾久)へーなど。
明和2年(1765)現在地に移る。久末住職は26代目。


周辺散策 2022.3
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー福井市史(昭和版)
南北朝期が起源=「福万村」の村名
ー北端に新田義貞戦没地ー

南北朝期「重藤名」が起源=「重藤村」
ー鎌倉初期「藤島下郷公文」置かれるー


南北朝期「重藤名(みょう)」が偲ばれる「重藤公園」
(福井市大宮5丁目)

 南北朝期の名田(開墾・買得などで取得田地に取得者の名を冠した田)、「重藤名」(しげふじみょう)が起源とされる江戸期「越前国藤島郷重藤村」(福井市大宮3丁目、二の宮4丁目)。
 この地には鎌倉初期、年貢米の管理・徴収を行う管理機関「藤島下郷公文(くもん)」が置かれていたとされる。

 「重藤名」について福井県史は、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)が、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えているーとしている。

 一方、「藤島下郷公文」は、「藤島の庄」上・下郷のうち、下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行い、(藤島城址とされる西超勝寺の地と伝えられる)同庄庄官の居館地「藤島」とともに、「藤島の庄」の中心を成していたーみられている。

 「藤島下郷公文」はその後、領主が度々変わったことから(鎌倉期とみられる頃に)廃絶され、南北朝初期にその跡地に名田(みょうでん)として開発されたーとされる。


周辺散策 2021.12
  主祭神が継体天皇の式内社、足羽神社
平安期「額田郷」の比定地、福井市海老助町
―「和名類聚抄」の足羽群10ヶ郷の1つー
平安期「額田郷」の比定地、福井市海老助町
南北に流れる日野川の上(右岸)

 平安中期の足羽郡10ヶ郷の1つ、「額田郷」に比定(比較して推定)されている日野川右岸の福井市海老助町(えびすけちょう)。

 西藤島村史によると、同町が「額田郷」に比定されたのは、日野川の渡し(人・貨物を舟で向こう岸に渡す)が、古くから「糟溜」(ぬかたび)の渡しーと呼ばれていたことによる。

 延長年間(923-930)、源順(みなもとのしたごう)の日本最古・最大百科辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)によると、当時の足羽郡には草原郷、安味郷、中野郷、額田郷、足羽郷など10ヶ郷(高山寺本の和名抄は15ヶ郷)が記載されているという。

 額田郷のほか、草原郷は後の芝原の地、安味郷は旧藤島村舟橋の地、中野郷は旧東藤島中ノ郷、足羽郷は九十九橋南・足羽山麓の地ーと見られている。

額田、継体天皇孫・額田部皇女との関係か

 額田の地名の起こりについては、「足羽社記」から、継体天皇の孫・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=後の日本最初の女帝・推古天皇)と特別な関係があったとの見方もある。

 しかし一方では、江戸期地域誌「越前古名考」には、古代の海老助地方は「ぬか」と呼ばれ、ここに「足羽の田部」が置かれたので、その田部を「ぬかの田部」といわれ、それが転じて地名も「ぬかたべ」と呼ばれるようになり、さらに略して「ぬかた」というようになったーとあるらしい。

継体天皇後裔・足羽臣の田部の説も

 「足羽の田部」の足羽については、西藤島付近の有力豪族で継体天皇の後裔ともいう「足羽の臣」とし、「ぬか」の地の農民は、足羽の臣を族長(氏上=うじのかみ)とする「足羽の氏」の部民(べのたみ=隷属する民)となって、足羽の臣が管掌する「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に、農産物を生産し納めていたーとも考えられているようです。 

 足羽の臣は、継体天皇の皇女、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)の後裔で、代々足羽神社の神主であったと伝えられ、正倉院には、天平神護2年(766)足羽郡小領を示す文書が今も残っているという。

 ちなみに、大和朝廷の頃は、「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に収納する農産物を生産していた農民を「田部」といい、同族の集まりの「氏」(うじ)に隷属。また「族長」は自分の家族を中心に他の部族も支配したという。


周辺散策 2021.11
  年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
 北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
ー足羽川と北陸道交わる交通の要衝ー
戦国期には「北庄大橋」と呼ばれた現在の「九十九橋」。
当時は左側・北詰より北庄中心部へ。または加賀(石川県)へ北陸道続く。
右側・南詰よりまもなく足羽山麓を南(左)へ北陸街道が続く。

 延徳3年(1491)、越後(新潟県)に向かう「冷泉為広(れいぜいためひろ)卿(高位の官職)の日記」には、「石バ百八間ノ橋アリ」とあるらしいー。

 この日記によると、戦国大名・朝倉氏が越前を治めていた頃には、足羽川と北陸道が交わる交通の要衝に、長さ「108間」という越前唯一の北庄大橋(現在の九十九橋)が架けられていたーという。

北庄大橋、戦乱多く経済的にも困難期の架橋
ー最も利益を得た「軽物座10人衆」に注目ー
 ただ、その頃は戦乱の絶えない戦国期だけに、大きな河川の架橋は、防衛上だけでなく経費的にも困難が伴う、大変な土木工事だったに違いない。

 それだけに、大橋架橋が「朝倉氏の交通政策だけでは説明できない」という。
 そこで注目されているのが、「足羽3カ庄」を中心に活動し最も利益を得ていた絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」。
「足羽3カ庄」の町場形成、北庄大橋が紐帯
ー朝倉氏直接支配し商業・経済機構掌握ー

 「足羽3カ庄」は、北庄大橋が紐帯(ちゅうたいー結びつけ機能させるもの)となり、3集落=北庄(足羽北庄)・石場(社荘)・木田(木田荘)が、人家・商家の家並みが連続する1町場(市街地)を形成。

 その後も3カ庄は府中(越前南部の経済商業都市)とともに、越前北部の重要な経済都市として発展したといい、特に朝倉氏は、「足羽3カ庄」を直接支配下に置いて領国内の商業・経済の仕組みを掌握したーという。

10人衆の財力、大橋の建設・維持費に関与か

 このような背景から、絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」の財力が、北庄大橋の建設・維持費に関与していたーとみられています。

周辺散策 2021.11
越前で古墳期に「絹織物」生産 年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
平安期に伊勢神宮を分祀して創建、神明神社
ー北庄前身・足羽御厨、伊勢神宮に絹献上 ー

 延長2年(924年)伊勢神宮を分祀して創建された神明神社。

 神明神社御由緒略記によると、遠く越前国北庄(きたのしょう)3郷(現在の福井市中心部)は、足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり=幌ともいい室内に垂れ下げて覆い隠す布)を献上する領地だった。

 神宮の御領地のことを記した「神鳳鈔」(じんぽうしょう)にも「足羽御厨 上分絹七疋 口入二十疋、百八十丁」と見え、後々までも当地で生産された絹が神宮へ上納されていたことが知られるーという。


周辺散策 2021.11
勝虎城、黒丸城の北東重要拠点 「越前朝倉氏」起こりの地
初代朝倉土佐守の菩提寺、曹洞宗・永春寺
ー舟橋を世襲で管理した四王天家もー
 遠江守・頼景は、南北朝期に北朝方・斯波高経に従い越前入りした広景を祖とするー越前朝倉の4代目、為景(貞景)の子で、北庄(きたのしょう=福井の旧称)に居館した初代・朝倉土佐守。北庄氏とも称す。

永春寺は江戸期に福井城拡張の際、本丸付近から寺町(石場寺町ともいう。現つくも二丁目)に移転。

 また四王天(しほうでん)家の菩提寺でもある。同家は南北朝の「勝虎城」(しょうとらじょう)を奉行所に、北陸街道の九頭竜川舟橋(福井市)を世襲で管理。

 元祖・又兵衛政実は、明智光秀に仕え本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとされる。

周辺散策 2021.5

右近家邸宅内
北前船の日本海五大船主、
右近家の邸宅
国重文・船主中村家邸宅も
近く公開へ
 北前船の日本海五大船主、右近家の邸宅。北前船資料館として一般に公開されています。
 右近家のある南越前町河野の船主集落は、日本遺産「北前船寄港地•船主集落」の一つ。
 同集落では現在、北陸有数の北前船主で国の重要文化財、中村家の邸宅も一般公開に向けて準備を進めています。

右近家邸宅
門の向こうに倉庫、その後ろが邸宅



河野北前船主通り
 右側右近家邸宅
左側倉庫
周辺散策 2021.4.21
華やかに彩る「花桃」-大野市和泉、勝原の両地区
道の駅「越前おおの荒島の郷」4月22日オープン
 日本百名山「荒島岳」の残雪を背景に、大野市和泉区のホテルフレアール広場で華やかに彩る「花桃」。「荒島岳」の麓にあるJR越美北線「勝原駅」(大野市)。


周辺散策 項目
ふるさとー写真 動画
誰が平泉寺に寄進したのか=
藤島保(後の藤島荘)
中世の城館「中角館」、
流通拠点構築の中核施設
古来人々が好むような住環境
=中角集落
鎌倉初期大規模開発
=開発など「藤島荘」故地
福万白山神社(薬師神社)
=福万村鎮守
南北朝期越中から藤島郷久末へー照厳寺
南北朝期が起源=「重藤村」の村名
平安期の「額田郷」、福井市海老助町
北庄大橋(九十九橋)架橋、
戦国期まで遡る
平安期に創建、神明神社
初代朝倉土佐守菩提寺、曹洞宗永春寺
日本遺産「河野の北前船集落」
華やかに彩る「花桃」
 
 
 
 
 
 
 

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【福井県坂井市】「ゆりの里公園」 【福井県坂井市】称念寺・新田義貞公菩提所 【福井県あわら市】北潟湖畔の花菖蒲園
【福井県永平寺町】     曹洞宗大本山永平寺 【福井県勝山市】平泉寺の苔ー日本一とも
平泉寺本殿  寛政7年(1795)再建    母屋と向拝をつなぐ竜の丸彫りの繋虹梁 日本の道百選「中世の石畳」
【福井県大野市】本願清水イトヨの里  国指定天然記念物 本願清水イトヨ生息地  【福井県大野市】寺町通り
【福井県大野市】曹洞宗第二道場・宝慶寺 【福井県大野市】七間朝市 400年以上歴史 【福井県大野市】そばの花
【福井県大野市】大野城 【福井県大野市】幻の野草「オキナグサ」 【福井県南越前町】花ハス切花生産日本一
【福井県鯖江市】西山公園のツツジ 【福井県越前市】万葉の里 味真野苑 【福井県敦賀市】花換まつり 4月 金崎宮
【福井県若狭町】三方五湖 桜の咲く頃 【福井県小浜市】「明通寺」三重塔     池には大きな鯉も
   
【福井県若狭町】
全国名水百選 「瓜割りの滝」
   

動画

尽きない興趣、写真と映像の世界楽しむ

 名所旧跡の映像です。思った通りに撮れないいのですが、このほかにも、フラメンコの踊りを撮ったり、写真(和服をリメイクしたドレスやワンピースなど)の動画をネットにアップして楽しんでいます。

 
石垣に映える満開の桜ー2021.4 ふるさと福井 平成のひと時  
称念寺にある新田義貞公墓所 イトヨの里 本願清水
戦国城下町のにぎわい
再現一乗谷朝倉氏遺跡
新田義貞公墓所、早春の頃
(称念寺)
イトヨの里 本願清水 
福井城址 国の特別史跡、朝倉遺跡
福井城址「桜の咲く頃」 県内では絶滅したという、
幻の野草「オキナグサ」
一乗谷朝倉氏遺跡
動画 項目
石垣に映える満開の桜ー2021.4
ふるさと福井 平成のひと時
戦国城下町のにぎわい
再現一乗谷朝倉氏遺跡
新田義貞公墓所、早春の頃(称念寺)
イトヨの里 本願清水
福井城址「桜の咲く頃」
県内では絶滅したという、
幻の野草「オキナグサ」
一乗谷朝倉氏遺跡