2026.6
全国唯一、戦国期の城下町全体を体感ー一乗谷朝倉氏遺跡
戦国大名朝倉氏100年より、はるかに古い歴史的前提

「義景館跡全景」
日本最古の「花壇」(中央)
国の特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡は、全国で唯一、戦国期の城下町全体が体感できる日本最大の中世都市遺跡として、「近年、全国の歴史ファンから過去にないほど注目を集めている」(一乗谷朝倉氏遺跡活用推進協議会)というが、朝倉氏は越前入国後ごく初期から、徐々に今の福井市平野部を中心とした地域に根ざし根拠地にしてきた一乗谷の歴史は、戦国大名として栄えた100年よりはるかに古い歴史的前提を持っており、奥深く興味が尽きない。
織田信長軍に焼き尽くされた400年前の城下町跡、そのまま残る
一乗谷朝倉氏遺跡は、朝倉氏が築いた山城(一乗谷城)と城下町からなる。戦国大名・初代朝倉孝景が、「応仁の乱」を機に越前一国を治め、それ以来5代100年間、1万人以上が暮らす日本有数の文化都市として栄え、そののち織田信長の軍勢により焼き尽くされ灰燼に帰したが、田んぼの下に埋もれていたため、400年以上前の城下町跡がそのまま残り遺跡としてよみがえった。
多くの遺構を露出展示、国の特別名勝4庭園
復元町並み、防衛拠点・施設等ー多様な魅力
計画的に整備された城下町には多様な魅力が溢れている。防御のため矩折(かねおれ/直角に曲がる)やT字路などを駆使した道路に沿って、当主が住む館(朝倉館)を中心に武家屋敷や寺院、町屋などが所狭しと並んでいる。

また、出土遺物のうち2,300点余が国の「重要文化財」に指定されているが、礎石や石組溝、石垣、庭石など、多くの遺構を露出展示しており、その頃の様子がリアルに体感できる。例えば、最後の5代当主、義景の館跡は、会所(常御殿)を中心に、主殿・小座敷をはじめ、庭園や花壇、台所、湯殿などの遺構から、戦国期の暮らしぶりが偲ばれる。

復元町並みは、朝倉氏末期頃の町並みが立体・再現され、中央には約5メートル幅の道路が南北に通り、西の山側に上級武家屋敷、東の川側に町屋がそれぞれ並ぶ。武家屋敷・町屋の建物は、燃え残った柱・畳の断片、戸の引き手など出土遺物のほか、判明した建物の間取り・井戸・トイレの様相なども踏まえて忠実に復元。食膳・暖房・灯り(日常用具)、茶の湯・香(伝統文化道具)、将棋の駒・羽子板(遊び道具)など出土遺物から、暮らしの様子も再現している。
武家屋敷の敷地内には、枯山水(かれさんすい)の庭やお茶のための座敷が設けられており、豊かな暮らしぶりが垣間みえる。また当時の京都の町屋は、路上などに共同のトイレ・井戸を持っていたといわれるが、一乗谷の多くの町屋は、個々にトイレや井戸を備えていたとみられる。
15代将軍足利義昭、館の宴で初夏の風情を堪能

館跡庭園
写真下の山裾「池庭」と左上の「中庭」で構成。
中庭は(取り外し可能な)塀の仕切りを境に花壇(写真左上)と平庭から成る。
花壇の右斜め上が「会所(常御殿)」。
国の特別名勝に指定されている4庭園(館跡・諏訪館跡・湯殿跡・南陽寺跡の各庭園)が、室町末期の多様な庭園様式を今に伝え、四季折々のさまざまな表情をみせる。
館跡庭園は会所(常御殿)の南に広がり、山裾の「池庭」(水を溜めた園池をもつ庭園)と「中庭」で構成。中庭は(取り外し可能な)塀の仕切りを境に花壇と平庭(水を用いず石組等で作庭された庭園)から成る。
15代将軍足利義昭は永禄11年(1568)5月17日、館御成の宴で会所の12間南面に着座したが、東南方向にみえる平庭や池庭、さらには右下花壇の初夏の風情を堪能したに違いない。

諏訪館跡庭園
また、豪壮華麗な諏訪館跡庭園は、優雅な曲水を主体とする上下2段構成。「上段」の石組内から溢れた谷川の水が緩やかに曲水部を伝い、「下段」滝石組より園地に優雅に流れる。滝副石(たきぞえいし)は高さ4メートルを超える巨石を使っており、辺りには豪壮な雰囲気が漂う。秋には庭園と紅葉が織りなす絶景を堪能できる。
下城戸の10-40トン巨石の構え、戦国の気風

巨石を積んだ桝形「城戸口」
重さ10tを超す巨石。中には40tを超すものも
一乗谷は天然の要害だった。北に足羽川が流れ、支流・一乗谷川沿いに当主の館と城下町を整備した。館の背後の東側山上には、詰城(つめのしろ/最後の防御拠点)として山城(一乗谷城)を築き、その周辺の山上には、西(東郷槇山城)、北(成願寺城)、南(三峰城)に出城をそれぞれ配置。当時は日本最大級という城下町を厳重に守った。
また、城下町の南端には上城戸、北端には下城戸の防衛施設をそれぞれ設けた。特に下城戸は、重さが10トンを超す(中には40トンを超す)という、巨石を積んだ桝形城戸口の豪華な構えに、戦国の気風が伝わる。
藤島の戦いで北朝方高経が立て籠った黒丸城
遺構痕跡期待し位置範囲確定急務ー福井市史
藤島の戦いののち黒丸城主にー越前朝倉氏の祖・広景
越前入国初期から、次第に福井平野部の土着を図る
ところで越前朝倉氏の祖、広景は、南北朝争乱期の建武4年(1337)、斯波高経(足利高経)に従い越前に入国すると、黒丸城(福井市西藤島地区の黒丸町)に入り、藤島の戦い後は城主として居城。
朝倉氏はその頃から、越前の足羽・日野・九頭竜の3大河川が合流する交通の要地、福井平野部と一部周辺の土着を図り、14世紀末から15世紀初めにかけて、これら地域のうち、中世・足羽郡南部の東部(一乗谷と周辺地域)を次第に根本地に確定。早くから一乗谷に主たる根拠地を置いたとみられる。
一乗谷朝倉氏の繁栄、黄金期は、このような歴史的土台の上に成り立っている。
2代高景、宇坂庄地頭職後、次第に一乗谷周辺を根拠地に確定
朝倉氏の根本地確定までの推移をみると、初代広景が康永元年(1342)、足羽郡足羽庄の西隣に位置する安居に氏寺の弘祥寺を創建。貞治3年(1347)には、北庄を重視して北庄神明社を造営した。2代高景は延文2年(1357)勲功の賞として足羽郡北庄「預所職」に、貞治5年(1366)には、宇坂庄・東郷庄(足羽郡)、棗庄・坂南本郷・木部島(坂井郡)、河南下郷・中野郷(吉田郡)の7つ庄・郷「地頭職」にそれぞれ任命されたが、これら地域(福井市平野部と一部周辺)が朝倉氏の根本的な所領だったとみられる。
また3代氏景(大功)は、一乗谷に熊野社を勧請し社殿を建てたとされ、氏景の弟は阿波賀を苗字とし、氏景の庶子兄弟も東郷・中島をそれぞれ苗字にした。さらに、氏景の妻(天心清祐)が14世紀中ごろ南陽寺を創建、代々朝倉氏子女が入寺したが、永享3年(1431)ごろ南陽寺と称す比丘尼(びくに/尼僧)が一乗谷近郊安原庄の代官であった。
このように、2代高景が宇坂庄「地頭職」を領有してから、次第に中世・足羽郡南部の東部(一乗谷と周辺)を根拠地に確定してきたとみられる。
2代高景、黒丸城から足羽北庄へ本拠地を移す
一乗谷移行は4代貞景(為景)の15世紀初頭か
もっとも、朝倉氏の居城先の変遷ついては、初代広景が黒丸城(福井市西藤島地区の黒丸町)に城主として居城後、延文2年(1357)2代高景が足利尊氏から足羽郡北庄「預所職」に任命されると、鎌倉期には守護所が置かれたという政治的重要地、足羽北庄(前の伊勢神宮領・足羽御厨/あすわのみくりや)に本拠地を移し代々居城(福井市中央)したとみられる。
足羽北庄から一乗谷に移った時期については、宝徳2年(1450)に亡くなった戦国大名・初代孝景の父、教景(家景)が一乗城麓に居館していたこと、先述の南陽寺比丘尼が安原庄代官であったことなどから、「少なくとも朝倉為景(4代貞景)の15世紀初頭までさかのぼるものと思われる」(福井市史)という。
このほか、「初代広景から4代貞景に当たる15世紀前半ごろには一乗谷に移ったと考えている」(郷土史家・松原信之氏・日本経済新聞2017/9/26)、通説1471年より「30年はさかのぼる」(福井県地名辞典平凡社)とそれぞれの見方を示すが、4代貞景(為景)の生没年が1358-1436で、3代氏景が1404年に亡くなっているから、福井市史の「少なくみても15世紀初頭」が最も近いように思える。
ちなみに、通説1471年より「30年はさかのぼると思われる」は5代教景(生没年1380-1463)の頃と推測している。 |