福井散策 和服リフォーム フラメンコ

一乗谷 朝倉遺跡とその関連ー福井散策

壮麗な国指定特別名勝「諏訪館跡庭園」
ー一乗谷朝倉氏庭園のうち最大規模ー
   
北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
ー足羽川と北陸道交わる交通の要衝ー
朝倉氏の一乗谷居城、早くて14世紀後半か
ー少なくとも15世紀初頭に遡るー
越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に
初代朝倉土佐守の菩提寺、曹洞宗・永春寺
ー舟橋を世襲で管理した四王天家もー
   

【西側山裾を散策】
下城戸ー豪壮な構えに戦国気風
瓢町ー職人の町屋跡
赤淵・奥間野ー寺院跡、町屋跡
八地谷・雲正寺
月見櫓、復元武家屋敷
【義景館跡庭園】
館跡庭園、特に注目される点
義昭御成に馳せる思い
館跡庭園の園地、数寄屋南縁中心に構成
医師の屋敷跡にも平庭遺構
「唐門」四季の移ろい

「義景館跡」初夏の風景=15代将軍・足利義昭御成(永禄11年5月17日)の季節 2021.7

2023.1   ページトップ

壮麗な国指定特別名勝「諏訪館跡庭園」
一乗谷朝倉氏庭園のうち最大規模

庭園は上下2段構成
「下段」の滝副石(写真中央)は高さ4m余。
豪壮な雰囲気が漂う


「上段」曲水部。
石組内から溢れた谷川の水が、緩やかに曲水部を伝い、
「下段」滝石組より園地に優雅に流れる。

 一乗谷朝倉氏遺跡の中の国指定特別名勝「一乗谷朝倉氏庭園」のうち、最も規模が大きく壮麗な諏訪館跡庭園(すわやかたあとていえん)。
朝倉氏の最後の当主(5代)義景が、側室の小少将(こしょうしょうー小将ともいう)のために造ったと伝える。

優雅な曲水主体の上下2段構成
ー高さ4m余の滝副石で豪壮な雰囲気漂う

 庭園は優雅な曲水を主体とする上下2段構成。「上段」の石組内から溢れた谷川の水が緩やかに曲水部を伝い、「下段」滝石組より園地に優雅に流れる。
 滝副石(たきぞえいし)は高さ4メートルを超える巨石を使っており、辺りには豪壮な雰囲気が漂う。

2021.11 年貢の絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘

北庄大橋(九十九橋)架橋、戦国期まで遡る
ー足羽川と北陸道交わる交通の要衝ー


戦国期には「北庄大橋」と呼ばれた現在の「九十九橋」。
当時は左側・北詰より北庄中心部へ。または加賀(石川県)へ北陸道続く。
右側・南詰よりまもなく足羽山麓を南(左)へ北陸街道が続く。

 延徳3年(1491)、越後(新潟県)に向かう「冷泉為広(れいぜいためひろ)卿(高位の官職)の日記」には、「石バ百八間ノ橋アリ」とあるらしいー。

 この日記によると、戦国大名・朝倉氏が越前を治めていた頃には、足羽川と北陸道が交わる交通の要衝に、長さ「108間」という越前唯一の北庄大橋(現在の九十九橋)が架けられていたーという。

北庄大橋、戦乱多く経済的にも困難期の架橋
ー最も利益を得た「軽物座10人衆」に注目ー

 ただ、その頃は戦乱の絶えない戦国期だけに、大きな河川の架橋は、防衛上だけでなく経費的にも困難が伴う、大変な土木工事だったに違いない。 それだけに、大橋架橋が「朝倉氏の交通政策だけでは説明できない」という。

「足羽3カ庄」の町場形成、北庄大橋が紐帯
ー朝倉氏直接支配し商業・経済機構掌握ー

 そこで注目されるのが、「足羽3カ庄」を中心に活動し最も利益を得ていた絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」。
 「足羽3カ庄」は、北庄大橋が紐帯(ちゅうたいー結びつけ機能させるもの)となり、3集落=北庄(足羽北庄)・石場(社荘)・木田(木田荘)が、人家・商家の家並みが連続する1町場(市街地)を形成。

 その後も3カ庄は府中(越前南部の経済商業都市)とともに、越前北部の重要な経済都市として発展したといい、特に朝倉氏は、「足羽3カ庄」を直接支配下に置いて領国内の商業・経済の仕組みを掌握したーという。

10人衆の財力、大橋の建設・維持費に関与か

 このような背景から、絹布取引特権的集団「軽物座10人衆」の財力が、北庄大橋の建設・維持費に関与していたーとみられる。

2021.11 勝虎城、黒丸城の北東重要拠点 ページトップ

初代朝倉土佐守の菩提寺、曹洞宗・永春寺
ー舟橋を世襲で管理した四王天家もー

 
 遠江守・頼景は、南北朝期に北朝方・斯波高経に従い越前入りした広景を祖とするー越前朝倉の4代目、為景(貞景)の子で、北庄(きたのしょう=福井の旧称)に居館した初代・朝倉土佐守。北庄氏とも称す。

 永春寺は江戸期に福井城拡張の際、本丸付近から寺町(石場寺町ともいう。現つくも二丁目)に移転。

 また四王天(しほうでん)家の菩提寺でもある。同家は南北朝の「勝虎城」(しょうとらじょう)を奉行所に、北陸街道の九頭竜川舟橋(福井市)を世襲で管理。

 元祖・又兵衛政実は、明智光秀に仕え本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとされる。


2021.12 ページトップ

朝倉氏の一乗谷居城、早くて14世紀後半か
ー少なくとも15世紀初頭に遡るー

 朝倉氏の一乗谷居城は文明3年(1471)と伝えるが、その居城時期は早くて14世紀後半、少なくとも15世紀初頭にそれぞれ遡るとみられる。

 これについて福井市史は、朝倉氏の一乗谷在城は少なくとも、越前朝倉4代目・為景(貞景)の15世紀初頭までさかのぼるものと思われる、とし、一方では、同2代目・高景が貞治5年(1366)の一乗谷・宇坂荘地頭職保有を機に、一乗谷を根拠地にした可能性が高い、とも述べています。

孝景の父、教景も早くから一乗城麓に居館
ー南陽寺比丘尼の安原荘代官職も根拠にー

 15世紀初頭とする根拠の1つは、宝徳2年(1450)に死没した越前朝倉7代・孝景(一乗谷朝倉初代)の父、教景(家景)も一乗城の麓に居館していたこと。
 また、朝倉氏の客館・一乗谷南陽寺は、応永11年(1404)に死没した同3代・氏景(大功)の妻女(天心清祐大姉)が創建し、代々朝倉氏の子女が入寺する尼寺となったといい、 朝倉氏一族の女子とみられる「南陽寺比丘尼(びくに)」が、足羽郡安原荘の代官職を勤めていたーいうことも根拠の1つに。

従来の説、孝景、文明3年(1471)一乗谷居城

 これまでは、南北朝の争乱期、北朝方・斯波高経に従い越前で戦った越前朝倉初代・広景は、藤島の戦い後、黒丸城(福井市黒丸町)を居城とし、孝景が文明3年(1471)に居城を黒丸から一乗谷に移した、と伝える。


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越前朝倉初代広景、 黒丸城主(福井市黒丸町)
-一乗谷に移るまで 6代130年間 居城-

 越前朝倉氏の初代朝倉広景は、南北朝期に足利一門の有力武将・斯波氏に従って越前に入国ー南朝方新田義貞軍と戦い、そののち黒丸城主(福井市黒丸町)になったと伝える。
 これが越前朝倉氏の起こりとされ、初代広景から一乗谷へ移るまでの約130年間6代にわたり黒丸城を居城とした。

黒丸城は福井市黒丸町=三宅町説は誤り

 福井県の地名(平凡社)によると、黒丸城(福井市三宅町)説について「従来、南北朝期に越前に入国した朝倉広景以来、一乗谷へ移るまでの6代130年間、朝倉氏の居城とされていたが、近年の研究によって、これが誤りであることが指摘された」とし、その上で「近年、城跡より五輪塔が何基か発見されていることから『越前国名勝志の俗説二朝倉ノ時代祈願所寺院ノ跡トモ云う』が正しいかもしれない」としています。

従来の説

 黒丸城については、大黒丸城(福井市三宅町)と小黒丸城(福井市黒丸町)の複数の説があって、越前朝倉氏の初代広景は、新田義貞軍との戦いの功により大黒丸城主になったといい、一方では6代孝景が一乗谷に移った時は、「大黒丸は本城」、「小黒丸は支城」ーとも考えられていた。
 

[義景館跡庭園]

2021.6 ページトップ  

初期の書院造庭園、草創期の茶座敷・茶庭に注目
ー一乗谷庭園遺構15以上、医者屋敷跡からもー

 特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡の庭園遺構で、日本庭園史上特に注目される点は、良好な状態の建物・庭園遺構に加え、座敷からの座観を主目的とした初期の書院造庭園を具体的に探れることといい、一方では、草創期の茶座敷・茶庭の構成などを知る手がかりとして期待されています。

 また一乗谷庭園遺構は、朝倉氏一族関係はじめ武家や医者など様々な階層でみられることから、社会的立場・階層と庭園構成の関係がわかるとして、この観点からも関心は高いようです。

 

 

 


「義景館跡全景」
日本最古の「花壇」(中央)
 
 常御殿(当主が居住、政務・大規模宴の場)の南に広がる義景館跡庭園は、山裾の池庭(水を溜めた園池をもつ庭園)と中庭で構成。中庭は(取り外し可能な)塀の仕切りを境に花壇と平庭(水を用いず石組等で作庭された庭園)から成る。

 常御殿南側に平庭と花壇。さらにその南側東寄りには歌会・月見・能などを行う会所(泉殿)、平庭東側には茶の湯を行う数寄屋があります。



上(北側)「常御殿」
常御殿前「花壇」仕切り境右側「平庭」
平庭右(東側)「数寄屋」
平庭下(南側)「会所(泉殿)」
会所(泉殿)右(東側)「池庭」
 
15代将軍足利義昭、永禄11年5月に義景館御成
ー初夏の風情を肴に盃重ねながら能を堪能かー

 15代将軍足利義昭の義景館御成は永禄11年(1568)5月17日。山に囲まれた一乗谷はその頃、樹々は瑞々しい若葉が生い茂り日ごとに青々とした生気をみなぎらせていくー。義昭は清々しい風景に心地よさを感じながら館の門をくぐったのだろう。

 常御殿の宴では十二間南面に着座。東南方向にみえる平庭や池庭、さらには右下花壇の初夏の風情を肴に、もてなす側の義景とともに、満面に笑みを浮かべ盃を重ねながら、正面左側の会所(泉殿)で繰り広げられる“能の舞い”を堪能していたのではないか。

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一乗谷川から望む「義昭館跡」


「唐門」
(朝倉氏遺跡の遺構ではありません)

 

常御殿、数寄屋、会所(泉殿)など3方からの眺め想定
ー館跡庭園園地、数寄屋南板縁から眺め中心に構成ー

 一方、平庭は常御殿、数寄屋、会所(泉殿)3方からの眺めが想定されることから、その構成も合わせて極めて綿密に設計されているといい、例えば数寄屋座敷からは平庭を鑑賞し、座敷南の縁に座れば、平庭とは違う趣で池庭を愉しめるという。

 ところで平庭にある(池庭からの)排水溝については、流れの水を利用した「流れ手水(手を洗って清める)」を取り入れたデザインとも考えられているようです。

 具体的には、京の都で流行っていた緑泥片岩(りょくでいへんがん)などの伏石(ふせいし)がバランスよく置かれ、粒ぞろいの美しい小砂利が全面的に敷かれているほか、
美しい流れ模様の海石「安島石」を遠くから取り寄せて使うなど、鑑賞に向くよう遣水(やりみず=庭に水を導き入れるように作った小さな流れ)風に工夫。

 また数寄屋と会所(泉殿)には、縁から降り立つための沓脱ぎ石(安島石)がそれぞれ据えられている。

 さらには、当時は手水(ちょうず)の作法が普及していたことから、「流れ手水」の見方があるようです。

 もっとも、義景館跡庭園の園池(庭園と泉水)は、数寄屋、会所(泉殿)と一体的に組み立てられたとしながらも、池庭の滝口はじめ周囲の石の向きから、茶事(少人数で行う正式なフルコースの茶会)で、中立ちの(いったん外にでる)場としての利用を想定し、数寄屋の南板縁からの眺めを中心に構成されたと考えられているようです。


 このような背景があって義景館跡庭園は、「初期の書院造庭園」に「草創期の茶庭」が複合した庭園として、極めて貴重な遺構とみられているようです。

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上「常御殿」右上「数寄屋」
下「会所(泉殿)」
左「花壇」塀 境に真ん中「平庭」


数寄屋座敷 からみる 「平庭」


数寄屋 南側板縁 からみる 「池庭」
   

上級武士で採用されている「薬医門跡」。この門から家の格は高いという。
門の前は「南北幹線道路」と直交する
「東西道路跡」

一乗谷朝倉氏遺跡 15以上の庭園遺構を確認
―朝倉氏一族ほか武士や医者の屋敷跡からもー

 一乗谷朝倉氏遺跡で確認されている15以上の庭園遺構については、朝倉氏一族関係だけでなく武士や医者など様々な階層の屋敷からも発掘。

 例えば、上級武士の屋敷で採用される形式、薬医門(本柱内に控え柱二本を建て切妻屋根をかけた門)を設置した「医師の屋敷跡」(赤淵・奥間野地区)では、長径約3㎝の砂利を敷き詰め、高さ70㎝の立石中心に計3石を配置した「平庭跡」を確認。

 この庭には、巨石を利用した蹲踞(つくばい=しゃがんで手水する)様石組を設置し、縁から降り立つための「沓脱ぎ石」(くつぬぎいし)を兼ねたという、大きく平たい石(長径130m)も備えています。

 一方、庭園の主な目的については、南側の表向き(武家屋敷玄関に設ける広い部屋)座敷からの観賞といい、屋敷の規模は小さいが、薬医門を設置していることから、家の格は高いという。

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南側「表向き座敷」からみる「平庭跡」
観賞が主眼という。
「東西道路跡」向こうには
大きな屋敷跡が2軒みえます。


手前、巨石を利用した
「蹲踞(つくばい)様石組」。
左「表向き座」

[西側の山裾を散策]

ー概略ー
「下城戸」
地区から、西側山裾にある「朝倉遺跡遊歩道」を南へ歩いて行くと、道路沿いにカワラケ(素焼きの器)職人町屋跡と道路跡が確認できます。
「瓢町」(ふくべまち)地区。

そこを過ぎて間もなく、
寺院跡・町屋跡のある
「赤淵・奥間野」地区に。

さらに、山沿いに沿って南へ歩いて行くと、多くの人々が住んでいたーという
「八地谷・運正寺」(やちだに・うんしょうじ)地区に。

さらに南へ向かうと、復元武家屋敷近くの
「月見櫓跡付近」に。
 

「下城戸」            2021.5.15

豪壮な構えに戦国の気風=10t中には40t超す巨石
ー運搬・石積技術に驚嘆ー

 敵の攻撃や侵入を防ぐー重要な防御施設「下城戸」の出入り口です。重さ10tを超す巨石。中には40tを超すものもあるといい、豪壮な構えに圧倒されます。当時の高度な運搬技術や石積み技術に驚嘆するばかり。 一方では戦国の気風が伝わってくるようです。

 左側土塁(幅約15m高さ約4.5m)外側のお濠(幅約10m深さ約3m)は、南北に流れる一乗谷川と交わっていたようです。

 また下城戸の造りは、外側から町が見通せないー矩折(かねおれ)状に。真っ直ぐ南へ進み、突き当たりを左(東側)に曲がると広場があります。 そこを右(南側)に曲がって町に入っていたようです。 ページトップ
 

「瓢(ふくべ)町」
カワラケ(素焼きの器)職人の「町屋跡」

「道路跡」は「南北道路跡」と「東西道路跡」が直交。
道路跡に沿ってカワラケ職人の「町屋跡」が確認できます。


瓢(ふくべ)町付近の「道路跡」

 

カワラケ(素焼きの器)
「職人の住まい跡」
右「南北道路跡」は
上(東西道路跡)と直交。
 
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「道路跡」に沿って
「町屋跡」(赤淵・奥間野地区)
手前と左側 「道路跡」
越前焼大甕(がめ)のある「紺屋跡」
手前「紺屋跡」に沿って「東西道路跡」
右側「南北幹線道路跡」
「赤淵・奥間野」
「計画的な町割」の城下町=「町屋跡」や「サイゴージ寺跡」、「医者の屋敷跡」など確認、便器の一部・木製「金隠し」も

 寺院跡・町屋(町人が住む店舗併設屋敷)跡のある「赤淵(あかぶち)・奥間野(おくまの)」地区です。特に「赤淵・奥間野」地区は、「平井・河合殿」地区とともに町屋が集中しているといわれています。
この地区では「町屋跡」のほか、「サイゴージ寺跡」、「医者の屋敷跡」などが確認できます。
またこの地区の「町屋跡」から便器の一部・木製「金隠し」がみつかり、考古学的に日本初の「トイレ遺構」と確認されました。

 道路は「計画的な町割」に基づいているといい、町屋跡は、一軒の間口が約6m奥行約12mと小規模ですが、道路に面して軒を接して立ち並んでいたという。

 町屋の人たちは、道行く人々に商いの声を掛け合っていたのでしょうか。歩いていると、そんな活気に満ちた町の光景が甦ってきそう。

 ちなみに、出土遺物などから、越前焼大甕(おおがめ)を備え付けた紺屋(こうや)のほか、油屋や酒屋、檜物師(ひものし)、鍛冶屋、塗師、大工、数珠屋(じゅずや)など、商店や職人の家が軒を接して並んでいたと考えられているようです。
                        2021.5.15

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「本堂跡」が土塁で囲まれた
「サイゴ―寺跡」
手前「東西道路跡」
「南北幹線道路」に直交。


戦国城下町の日常 寸劇で再現
上級武士で採用されている「薬医門跡」。この門から家の格は高いという。
門の前は「南北幹線道路」と直交する
「東西道路跡」

南側「表向き座敷」からみる
「平庭跡」。観賞が主眼という。
手前は巨石を利用した
「蹲踞(つくばい)様石組」。

この辺の「町屋跡」から便器の一部・木製「金隠し」がみつかったことから
日本初の「トイレ遺構」と確認
 
「八地谷雲正寺地区」
多くの寺院、谷の奥まで多くの人が住む

 寺院跡・町屋跡の南側は「八地谷・雲正寺(やちだに・うんしょうじ)」地区。雲正寺はじめ多くの寺院が建っていたという。

 八地谷は通称「八地千軒」といい、東西道路跡は八地谷川に沿って谷の奥まで続き、屋敷が建て込み多くの人が住んでいたようです。

 当時では珍しい石積の護岸-多くの掘立柱建物跡

 一乗谷城下町を縦断する南北幹線道路跡は、八地谷川に沿って奥へ続く東西道路跡に直交。八地谷川は当時では珍しい石積の護岸が施され、その南側には多くの掘立柱(ほったてばしら)建物跡がみえます。




「南北幹線道路跡」に直行する
「東西道路跡」は、 八地谷川に沿って 奥へ続く。
石積が施されている
「八地谷川の護岸」

多くの寺院が建っていた
「雲正寺地区」。
手前「南北幹線道路跡」に直交する
「東西道路跡」
奥に「掘立柱(ほったてばしら)建物跡」がみえる。
 
「月見櫓跡付近」

  さらに南へ「月見櫓跡」付近を過ぎると、まもなく「復元武家屋敷」の矩折(かねおれ)状「道路跡」が外から確認できます。ここからは有料です。
2021.5.15

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「雲正寺地区」から続く
「南北幹線道路」
「月見櫓跡」付近。
突き当り「復元武家屋敷」


「復元武家屋敷」。
外からみえないように
「矩折(かねおれ)状」の
「南北幹線道路跡」
「唐門」 四季の移ろい

 朝倉氏遺跡を象徴する代表的な「唐門」です。朝倉義景館跡の西側入口に建っています。

しかし、この門は朝倉氏の遺構ではなく、豊臣家が朝倉滅亡後、朝倉氏五代義景の菩提を弔うため移築寄進した松雲院(しょううんいん)の正門と伝えられています。       
2021.5

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