越前大野城と碁盤の目通りに広がる古い街並み
ー全国でも珍しい寺町通り9派16カ寺ー
北陸の小京都と呼ばれる城下町、福井県大野市。
亀山にそびえ立つー越前大野城の麓には、京都のような碁盤の目通りに古い街並みが広がる。殿様のご用水に使われた御清水(おしょうず)など、いくつもの湧水地が点在し、外敵の攻撃を防ぐために置かれた「寺町通り」には、城下を支配しやすいように集めたー全国でも珍しい9派16カ寺が並ぶ。
日本三大 “天空の城”の一つ越前大野城
最近では越前大野城が、兵庫県朝来市(あさごし)の「竹田城跡」や岡山県高梁市(たかはしし)の「備中松山城」とともに、日本三大 “天空の城”(雲海に浮かぶ幻想的な城)として注目されており、全国から多くの人が訪れているという。
織田信長の家臣・金森長近、越前大野城を築城
ー豊臣秀吉、徳川家康にも仕え一代で大名にー
越前大野城を築城したのは金森長近。天下の覇者、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人に仕え一代で大名にまで出世した武将である。織田信長が越前国の一向一揆を鎮圧ーその恩賞として大野郡3分の2を与えられ、亀山(中世のイヤマ)に城を築き麓に城下町を整備した。
しかし、越前大野城は安永4年(1775)の大火で焼失した。
築城時の天守、望楼を持たない寺院御殿風
ー現在の威容とは随分違うらしいー
その後、現在の立派な天守は昭和43年(1995)に再建された。しかし、尾張徳川家の絵図(名古屋市蓬左文庫所蔵)に基づく「大野城天守復元模型」の写真を見ると、天守は望楼を持たない寺院のような御殿風檜皮葺(ひわだぶき)。現在の威容はかつてとは随分違うようです。
もっとも、自然石を加工しないで積み上げた野面積み(のずらづみ)の石垣は、「当時のまま」とか。この工法は、水はけがよいため風化が少なく堅固な特徴がある。
南北、東西各6本が直交する道路を造る
ー湧水活用を重視し上水道・下水路整備ー
城下町の建設は、南北6本・東西6本が直交する道路を造り、特に豊かな地下水(湧水)活用を重視して、南北道路5本(寺町通り除く)中央には、本願清水の湧水を流す水路(3尺・約2・73メートル)を整備。上水道(飲料可能な生活用水、防火用水)・下水路(汚水・雨水路)も城下に張り巡らせた。
当時の道幅は、車社会の現代でも特に拡張することなく使われているという。
袖壁のある町家並ぶ「七間通り」、城に続く大手道として栄えた
今でも大野市街地では、格子戸や袖壁(隣家とのしきりの壁)のある町屋(商家)、民家があちこちで見られるが、とりわけ「七間通り 」は、和菓子屋や醤油屋、酒屋など様々な老舗が軒を連ねる。春分の日から大晦日までの間 、400年以上の歴史を誇る「七間朝市」が開かれ、昔から最も富豪が多く住み、大店が並び、城に続く大手道として栄えたという。
錦町〜春日神社美濃街道沿い、戦国期までに都市化
一方、城下町東限の「寺町通り」は、越前(福井県)と美濃(岐阜県)を結ぶー中世の美濃街道沿いに立地する。
大野市史によると、大野町の発展は、春日神社付近の古町(近世の大野では中世の大野町を古町と呼んだ)から始まった都市化が、美濃街道沿いに北へ延びていったとみられ、春日神社付近〜のちの寺町(現錦町)一帯は、早くから市街化が進み、既に戦国期までに大野郡の中核として都市的機能を備え、政治の拠点にもなっていた。
室町期の大野郡を実質支配していた二宮氏、戦国期の郡司・朝倉光玖(こうきゅう)が、春日神社北方の大野郡小山荘西小山郷の土橋(総称どばし)にそれぞれ屋敷を構えたのも、都市的発展が進んでいた美濃街道沿い一帯を支配するため。したがって、金森長近が亀山(中世以前イヤマ)に築城したのは、「至極当然」とみられている。
美濃街道を巡る、春日神社〜寺町通り
ー中世の都市発展に思いを馳せながらー
春日神社周辺で門前町として始まったー中世の都市的発展に思いを馳せながら、美濃街道の静かなたたずまいを散策したいものです。
美濃街道は、城下町南東に立地する春日神社の西側春日通り(美濃街道中路・西路)を北へ、野村醤油前、日吉神社、蓮光寺(二宮氏屋敷があった所)、光玖寺(朝倉光玖の屋敷跡)を経て、「寺町通り」に至る。(野村醤油過ぎてまもなく右折すると美濃街道東路)。
もう一つは、城下町特有の風情のある建物が残るー美濃街道「横町通り」から北へ、岫慶寺、蓮光寺(同)、光玖寺(同)を経て、「寺町通り」に至る。
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