福井散策 和服リフォーム フラメンコ

福井のお城(中世の城館・お城関連含む)ー福井散策

中世の城館「中角館」 「中角館」関係遺物多彩ー中角集落
中世の城館「中角館」  流通拠点構築の中核施設
南北朝期「藤島城址」 藤島の戦いの舞台となった藤島城址
南北朝期「足羽7城」 「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
ー「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー
南北朝期「勝虎城址」 黒丸城の北東重要拠点、勝虎城
  福井藩主松平家の別邸「養浩館庭園」
小浜城址 酒井忠勝自慢の「小浜城天守」ー徳川幕府お抱え大工が指導
福井城址 400年以上前の遺構「福井城址」ー良質の「笏谷石」4万個使用
 

福井藩主松平家の別邸「養浩館庭園」  2023.1 ページトップ

3代忠昌の時代、芝原上水引き込み「池」造成
ー元禄年間に大規模改修ー現在の様相に

 江戸初〜中期に造られ当時は「御泉水屋敷」と呼ばれていたー福井藩主松平家の別邸「養浩館庭園」(ようこうかんていえん 福井市宝永3丁目)。

 3代忠昌(1623〜1645)が小堀遠州(江戸初期の大名で代表的な作庭家)に庭の設計を依頼したともいわれ、「池」は城下の飲料水「芝原上水」を引き込み造成。
 7代昌明(のち吉品に改名)の元禄年間(1688〜1703)大規模改修で、江戸中期の茶師山田宗偏の設計とも伝える「数寄屋風書院造」はじめ「茶室」なども建て替えられ、現在の様相になったとみられる。

明治17年松平春嶽「養浩館」と名づける
ー孟子の「浩然の気を養う」に由来

 明治以降は、引き続き松平家所有地として迎賓館の機能を果たし、明治17年(1884)松平春嶽(幕末から明治初期にかけての大名、政治家)が「養浩館」と名づけたが、それは、孟子(もうし)の言葉「浩然(こうぜん)の気を養う」(大らかな心持ちを育む)に由来すると伝える。

福井空襲で建造物全焼失、「国名勝指定」機に復元
ー江戸期「御泉水指図」に基づき

 昭和20年(1945)の福井空襲では、池と築山、石組を残し建造物は全て消失したが、昭和57年(1982)国名勝指定を機に、「御泉水指図」(文政6年ー1823)に基づき復元整備に着手し、平成5年(1993)に一般公開された。

「回遊式林泉庭園」と「数寄屋風書院造」が美しい
ー藩主らが眺めた同じ景観を再現

 庭園は、広い池の周りに入江や出島、石組を巧みに配置した「回遊式林泉庭園」。かつての藩主らが眺めた同じ景観が再現されているという。池の東側には、柿葺(こけらぶき)平屋の瀟洒(しょうしゃ)な「数寄屋風書院造」の建物、西側には「清廉」(小休憩所)があり、書院玄関を入ると、「御座の間」など諸部屋が南に続き、北には「湯殿」も復元されている。
 
 

 
 

 
 
 
 

 

2022.7 ページトップ

中世の城館「中角館」、流通拠点構築の中核施設
ー堀割による土地区画に注目ー

えちぜん鉄道「中角駅」東側。
「多知」地籍は「中角館」跡の比定地。

写真=上下に延びる右側道路の右端、館囲む環濠(約9メートル)の南端境界とみられる。
南端境界から北へ約90メートルが環濠北端境界とみられる。
写真=右下角(公園に大木) あたりが環濠東端境界とみられる。
東端境界から西へ(駅方面)約54メートルが環濠西端境界とみられる。

 九頭竜川北岸に位置し古来渡船場として交通の要衝だった中角集落(福井市中角町)の「多知」地籍(えちぜん鉄道中角駅東側)ー。
 この地籍は、朝倉氏家臣・乙部勘解左衛門(おとべかげゆざえもん)の居城とされるー中世の城館「中角館」跡の比定地。

中角館の多面性に注目=本来の防御に流通機能

 中角館は、一帯に広く展開する荘園「河合庄」が流通拠点を中角集落に構築するため、「堀割による土地区画と水路網整備事業」の中核施設として建設したーと考えられており、特に堀割による土地区画が注目されている。
 もっとも、中世の城館は本来的には防御拠点ですが、それだけでなく流通機能を併せ持つ中角館の多面性にも注目したいものです。

  堀割構造、中角館起点に展開=集落全体に影響
ー自然堤防沿いに堀割と一体の水路網 ー

 具体的には、集落内の堀割構造は、堀割で構成されている「中角館」(南北72メートル、東西36メートル。周囲に幅9メートルの環濠巡る)を起点に展開し、集落全体に影響を及ぼしていた、と見られている。
 また、(中角駅西側の)自然堤防沿いに整備された堀割と一体の水路網については、「集落内部と九頭竜川が(約120メートルの)水路で接続され、小舟による往来も可能になっていたと考えられる」という。

代官による館・渡船場整備後、乙部氏居城か

 中角館や渡船場の整備・造営については、斯波高経の子義将(よしゆき)が管領(かんれい)に就き康暦2年(1380)までに越前守護になった以降ー「越前国」経営が本格化してから、「河合庄を現地で管理する代官によってなされた」と考えられており、乙部氏が居城し河合庄の給人となって荘園管理を任されるのは、「それ以降のことであろう」という。

斯波氏絶大な権力掌握=流通拠点の大開発推進

 一方、斯波氏は、越前、信濃、加賀に続き、応永6年(1399)応永の乱の後には尾張、遠江の守護を獲得ー5国を領し、室町幕府の官領として絶大な権力を掌握。
 この時期に河合庄は、堀割による土地区画と水路網の整備を中心とした大規模な開発を推進して、陸運・水運を集約する流通拠点を構築。
 中角集落は「言わば新興商業地」として「劇的な発展を遂げた」ーと考えられています。

2022.7 ページトップ

古くから人々が好むような住環境=中角集落
―九頭竜川北岸に広がる中角遺跡の中心―

えちぜん鉄道「中角駅」西側に広がる長閑な夏の田園風景ー。
「ガタンゴトン」「ガタンゴトン」と通り過ぎるーローカル電車の響きに、
誘われる郷愁のひと時

 九頭竜川北岸に広がる「中角遺跡」の中心である中角集落(えちぜん鉄道中角駅付近)は、「古くから自然堤防上に人々が好んで住むような環境だった」と見られています。
 九頭竜川は、中世まで「崩河(くずれかわ)」と呼ばれるほどの「暴れ川」だったといいますが、発掘調査では流砂・流泥など「洪水の痕跡」は一切見られなかったことから、「古来より水害に対して比較的安全な地域であり続けたに違いない」という。
 これについては、自然堤防上の微高地であるため、洪水時も浸水が軽微で済み、排水性も比較的良好に機能していたーと考えられています。

弥生中期から古墳前期まで墓造られ土器も出土

 また、中角駅西側の発掘調査では、弥生中期から古墳前期まで約300年にわたりお墓が造られていたーことがわかり、土器がそのお墓の周りの溝から出土。また(お墓は未確認だが)縄文末期、古墳後期以降、古代(奈良・平安期)の土器も出土しているという。
 このことからも、古くからの人々の生活の営みが見えてくるようです。

中角館関係遺物多彩=豊かな生活―支配階層級関与

 このほか、上層から出土したという、中世の城館「中角館」跡(比定地中角駅東側「多知」地籍))関係と考えられる多彩な遺物にも注目したいものです。 土器のほか多彩な遺物とは、輸入陶磁器、漆器、金属器など。
 「特に輸入陶磁器には天目茶碗や香炉がみられ、豊かな生活水準、相応の富裕層の存在を示している」といい、「武士など当時の支配階層級が密接に関与していたと想定される」という。


南北朝期「藤島城址」  2021.11  
「足羽7城」比定、福井市史独自の見解

藤島の戦いの舞台となった藤島城址
ー西超勝寺に城址名刻まれた石柱ー

 延元3年/暦応元年閏(1338)7月2日、南朝方新田義貞は平泉寺衆徒立て篭る藤島城の戦況偵察に向かう途中、北朝方藤島城援軍と遭遇し討ち死にしたー「越前国藤島の戦い」。
 その舞台となった藤島城址は、西超勝寺(福井市藤島町)の寺域一帯に比定(比較して推定)され、山門脇には藤島城址と刻んだ石柱が立っている。

 境内北側には当時のものと伝えられる土塁の一部が残り、北朝方・斯波高経が築いた足羽7城の一つに数える説も。   

比定地複数の説も、西超勝寺が相応

 ただ藤島城址については、朝倉期・土肥氏の城館を足羽7城の内とするー「越前城跡考」に従うと、藤島町に隣接する林町の通称「館(たち)の山」に比定されるというが、現在の西超勝寺が相応と考えられている。

 その「館の山」には、寿永の頃(1182-1183年)、木曽義仲の家臣・林六郎太夫光明が居城したとされ、それが「林」の町名由来。この城館はその後も鎌倉期から戦国期にかけて使われていたようです。  「館の山」の規模は南北約100メートル東北約160メートル。「東館」と「西館」の2郭から成る。
 館の山の実測図で土塁に囲まれた敷地をみると、「越前城跡考」の「藤島村より3町計南40間方計之所土居有」というー40間(約72メートル)四方の土肥氏・城館跡がイメージできます。 その上で現在の「館の山」付近を眺めると、往時の風景が甦って気そう。
 一方、神田本「太平記」の、平泉寺衆徒が藤島の庄に下りて「三ノ城」にたてこもりーとある「三ノ城」については、藤島城(西超勝寺)と林城(「館の山」城館)、丸岡城(福井市丸山町=旧丸山村で江戸期の丸岡山村)ーの総称とも考えられているようです。

新田義貞死後、楠正成一族2氏が定住=林町

 ところで東藤島史によると、新田義貞が戦死した後、義貞とともに転戦してきた楠正成の一族(楠氏と和田氏)が林町に定住。和田氏は楠氏に従って越前に来たと伝えられている和田孫三郎の後裔という。

 「西超勝寺」山門脇に立っている藤島城址と刻まれた石柱。

 「西超勝寺」の境内北側には当時のものと伝えられる土塁の一部が残る。
藤島城では、南朝軍が堀に入り櫓(やぐら)を崩して攻め込もうとすると、平泉寺衆徒が転がし落とす木に突き落とされ、平泉寺衆徒が堀の橋を渡って打って出ると、南朝軍に太刀先を揃えて斬って落とされるー激しい攻防戦が繰り広げられていたという。

 電車線路向こう側にある通称「館の山」(福井市林町)。
南北100メートル東北160メートルぐらいの小さな丘上に、40間(約72メートル)四方の朝倉期土肥氏の城館があったーと伝えられる。
 「館の山」(福井市林町)付近から見える「丸岡城」(福井市丸山町=旧丸山村で江戸期の丸岡山村)。写真正面右側

南北朝期「勝虎城址」  2021.10 四王天家の菩提寺、曹洞宗・永春寺

勝虎城、主郭・黒丸城の北東重要拠点
―南朝期から近世まで存在―

 交通の要衝、九頭竜川と北陸街道が交わる重要な渡河地点(河川を渡るのに適した場所)ー舟橋南詰に立地していたという勝虎城(しょうとらじょう)。

 「太平記」巻20には、「…3番に細屋右馬助(うまのすけ)、千余騎にて河合の庄より押し寄せ、北の端の勝虎城を取り巻いて…」とある「北の端の勝虎城」です。

 勝虎城は、南北朝時代には勝虎与一兵衛政澄が居城し、近世まで存在していたようです。

朝倉期関戸半助居城、柴田期代々橋奉行置く
―江戸期四王天家が世襲で勝虎城を奉行所に―

 朝倉氏時代には関戸半助が居城したといい、柴田勝家時代には福岡七左衛門をはじめ代々橋奉行が置かれていたという。

 また江戸時代には、明智光秀に仕え本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとされるー四王天(しほうでん)家の元祖・又兵衛政実が、舟橋の管理を任され、それ以来、四王天家が「勝虎城址」に奉行所を置いて世襲で管理にあたったという。

黒丸城・勝虎城・北庄城-結ぶ範囲に足羽7城か
―勝虎城址、今は河川敷でテニスコートに―

 南北朝期の越前の戦いで登場するーいわゆる「足羽7城」の比定地は、いくつかの説がありますが、福井市史によると、勝虎城は、主郭とみられる”黒丸城城構え”の最北東端に立地。

 そして、最南東端の足羽川付近にあったとされる北庄城(南北朝の城館)、主郭の3点を結ぶ範囲一帯に、勝虎城や北庄城などの主要な7つの城があったのではないか、という。

 勝虎城址は現在、河川改修に伴い九頭竜橋(旧舟橋)付近の河川敷にあって、テニスコートとして利用されています。南橋詰には舟橋の由来と橋奉行四王天又兵衛の役所跡を示す碑があります。

「勝虎城跡」は、九頭竜橋(旧舟橋)鉄橋付近の河川敷テニスコートにあったという。写真右上。また、舟橋の由来と橋奉行四王天又兵衛の役所跡を示す碑は写真鉄橋左端。
 

南北朝期の「足羽7城」  2021.10  

「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
―「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー

 南北朝期の建武1334年~暦応(1338ー1342年)/延元(1336ー1340年)年間に、越前を舞台に繰り広げられた後醍醐・南朝方新田義貞軍と足利尊氏・北朝方斯波高経軍との攻防で登場する城館(城郭と住居を兼ねた大きな建物)ーいわゆる「足羽7城」。
 その比定地については、いくつの説があり、関係者の高い関心を集めているようですが、主郭とみられる「黒丸城」の比定地修正(福井市三宅町から同黒丸町)に伴い、福井市史では「足羽の城」の所在する範囲を福井市街地西部周辺に改め集約。

 その上で、「太平記」巻20の記述矛盾を指摘して独自の見解を示しており、今後の論議の行方に注目したいものです。

大黒丸城(三宅町)・小黒丸城(黒丸町)説否定
―小黒丸城こそが朝倉氏の居城―

 「黒丸城」の比定地については、従来の大黒丸城(福井市三宅町=根城)・小黒丸城(福井市黒丸町=支城)説が否定され、高経以後、朝倉氏が一乗谷入城まで6代約130年間拠点とした黒丸城は、「小黒丸城こそが朝倉氏の居城であったという新しい見解だされた」(福井市史)。

「足羽7城」とは

 ちなみに、「足羽7城」とは、「太平記」巻20の「足羽城」(あすわのしろ)と「その内に7つの城をこしらへ」という記述によるとみられているようです。

 それには「義貞も(脇屋)義助も、河合の庄へ打ち越えて、まづ足羽城(あすわのしろ)を攻めらるべき企てなり」。
 また義貞軍の攻勢に対し高経軍が、「深田に水を懸け入れて、馬の足も立たぬやうにこしらへ、路を堀り切って、穽しをかまへ、橋をはづし溝を深くして、その内に7つの城をこしらへ」とあります。

主郭・黒丸城、掘割中心の城構え想定
―「城跡考」などと異なる―

 福井市史の「足羽7城」の新たな見方は、「城跡考」や「日本城郭全集」などが示すー福井市街地周辺に点的に位置する7城ではなく、黒丸城の掘割(地を掘って水を通した所ーほり)を中心とした城の構えを想定。

 具体的には、九頭竜川(北側)と日野川(西側)、足羽川(南側)を天然の掘割と見立てて、九頭竜川と日野川の交わる位置に黒丸城、南端に北庄城、北端に勝虎城(しょうとらじょう)の3ヵ所を結び、その地続き範囲一帯の重要地を掘割で幾重にも区切って、曲輪(城・砦の周りを土塁、石垣、堀などで区画した区域)を築いたと考えており、「それらのうち勝虎城や北庄城などの主要な曲輪が7つの城に相当するのではないか」という。

「太平記」巻20の記述矛盾を指摘

 福井市史が指摘する「太平記」巻20の記述矛盾をいくつか挙げると、義貞が波羅蜜(はらみ)・安居・河合・春近・江守の5ヵ所へ兵をさし向け、斯波方の拠る足羽の城を攻めたーということに関し、「1番手に一条行実が江守より出撃し黒竜明神の前にて合戦する」とあるが、これについては「前後の文脈から推しても江守城での争奪戦を意味しているとは限らない」。 

 また「同じく2番手の船田政経の場合は、安居の渡し(人や荷物を舟で向こう岸に運ぶ)で細川出羽守と合戦した」とあるが、これについては「安居の渡しを渡る方向が西からとも東からとも受け取れ曖昧である」。

 ただ、「3番手の細屋右馬助が河合荘より押し寄せて『北の端なる勝虎城』を取り巻いて合戦した」というくだりは、「合理的でそのまま理解できる」という。

 その上で、近世後期の地誌「城跡考」が示す北庄城・安居城・江守城・小黒丸城・勝虎城・藤島城・波羅蜜城については、「それぞれ振り分けた城館名は、各荘園内での拠点的な位置をもつ城とすべきであって、高経が籠城戦に際して急造したにわか仕立ての城と考えては、地理的関係からも文脈から推しても腑に落ちない」としている。

さらに「太平記」巻21の記述矛盾も指摘

 さらには、同書巻21でも記述の矛盾を指摘。

 義貞の不慮の戦死後、大勢を立て直した(脇屋)義助が再度黒丸城を攻め立て、高経が加賀へ落ち延びるくだりがあり、この時、「5つの城」に火をかけて落ちていったというが、これについても「もし仮に『城跡考』のいう足羽7城のうちの5つの城とするなら、波羅蜜・和田・江守・安居などは義助方が攻め落としており、この時点でも該当しないことになる」という。

 南北朝の争乱期、いわゆる「足羽7城」の主郭とみられる黒丸城址(福井市黒丸町)。
「藤島の荘」最北西端に位置し、越前における北朝方斯波高経の居城だった。
背後に合流する2大川(九頭竜川・日野川)を控え東南方向に深田が広がる要害ーという、立地条件を巧みに利して7つの城(砦=とりで)を築造。南朝方新田義貞の攻勢に備えたとされる。
写真=下・日野川、右端中央・九頭竜川で、いずれも左方向に流れまもなく合流。中央やや左・黒丸町集落)。

小浜城址   2021.6  
酒井忠勝自慢の小浜城天守、徳川幕府お抱え大工が指導
ー海から往時の感嘆の声が聞こえそうー
 海からの眺めを美しく魅せたいー。藩主・酒井忠勝はそのような思いから、天守の破風(切妻・入母屋造りの両端三角部分)を黒塗りから白い漆喰に変更するよう、指示したという。

 徳川幕府のお抱え大工中井正純(五郎助)の指導で造られたという忠勝自慢の天守。特に完成した頃、小浜港を行き交う船の乗組員らは、感嘆の声をあげて見入っていたことだろう。
天守台寛永12年(1635)、天守その翌年それぞれ完成
 写真は、海と河川(北川と南川)を外濠として活かした 要害の水城(みずき)、小浜城の天守台跡です。

 酒井忠勝が京極氏に代わり若狭国小浜藩主となったのは 寛永11年(1634)。
 その頃には、京極氏が慶長6年(1601)から手がけた小浜城は「一応完成していた」ともいわれていますが、工事を受け継いだ忠勝は翌年に天守台を 、その翌年寛永13年(1636)10月頃までに天守をそれぞれ完成させたようです。
天守台石垣は地元産(蘇洞門・泊)花崗岩を使用
ー天守の材木は出羽秋田であつらえるー
 もっとも、天守台と天守の普請で使った材料については、石垣は地元産(蘇洞門と泊)の花崗岩を割って使用。石積みは近江国穴生(あのう)の熟練した石垣積み集団が担ったほか、天守の材木は材木産地として名高い出羽秋田であつらえたという。

 それ以来小浜城は酒井氏14代約230年間の居城として存続し、その間、沿岸諸港との交易で栄えた小浜港や城下町の繁栄を見守ってきた天守は、廃藩置県後の明治7年(1874)に解体された。
忠勝が天守への金銀収納、武具備え付けを指示
ー注目される天守の使い方ー
 ところで、忠勝の天守の使い方については、家中にも秘密の保持を命じて、金子と銀子を区分けして箱詰めにするなど天守への金銀収納を具体的に指示していることや、鉄砲や弓など武具の天守への備え付けを指示していることが注目されているようです。
 

「天守台跡」。当時は「天守付属の櫓」(天守東側)を通って天守へ。
 本丸跡外側から
天守台跡」(奥)「小天守台跡」(中)
「天守台跡への入り口」
階段を登ると広場へ。当時は広場に「天守付属の櫓」があったという
「小天守跡」
「大天守跡」(奥)
 

福井城址 2021.4  
400年以上前の遺構、福井城址ー「笏谷石」4万個使用  
 福井城跡の石材は、地元で産出される良質の「笏谷石」4万個ほど使用されているという。

 また、本丸跡周囲のお濠に面した石垣は「打ち込みはぎ布積み」(接合面を打ち欠いて接点を増やし、目地を水平に積む方式)。

 天守台跡の石垣は「切り込みはぎ布積み」(石を整形し目地を水平に積む方式 )でそれぞれ造られているようです。
  御廊下橋 南側
御本城橋 西側 御本城橋 東側
坤(ひつじ)櫓跡 付近

巽(たつみ)櫓跡 付近

艮(うしとら)櫓跡 付近
御廊下橋 入口付近 山里口御門 裏手の階段 天守台跡 に登る階段

天守台跡

天守台跡 御廊下橋 南側