「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
―「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー |
南北朝期の建武1334年~暦応(1338ー1342年)/延元(1336ー1340年)年間に、越前を舞台に繰り広げられた後醍醐・南朝方新田義貞軍と足利尊氏・北朝方斯波高経軍との攻防で登場する城館(城郭と住居を兼ねた大きな建物)ーいわゆる「足羽7城」。 その比定地については、いくつの説があり、関係者の高い関心を集めているようですが、主郭とみられる「黒丸城」の比定地修正(福井市三宅町から同黒丸町)に伴い、福井市史では「足羽の城」の所在する範囲を福井市街地西部周辺に改め集約。
その上で、「太平記」巻20の記述矛盾を指摘して独自の見解を示しており、今後の論議の行方に注目したいものです。 |
大黒丸城(三宅町)・小黒丸城(黒丸町)説否定
―小黒丸城こそが朝倉氏の居城― |
「黒丸城」の比定地については、従来の大黒丸城(福井市三宅町=根城)・小黒丸城(福井市黒丸町=支城)説が否定され、高経以後、朝倉氏が一乗谷入城まで6代約130年間拠点とした黒丸城は、「小黒丸城こそが朝倉氏の居城であったという新しい見解だされた」(福井市史)。 |
「足羽7城」とは |
ちなみに、「足羽7城」とは、「太平記」巻20の「足羽城」(あすわのしろ)と「その内に7つの城をこしらへ」という記述によるとみられているようです。
それには「義貞も(脇屋)義助も、河合の庄へ打ち越えて、まづ足羽城(あすわのしろ)を攻めらるべき企てなり」。
また義貞軍の攻勢に対し高経軍が、「深田に水を懸け入れて、馬の足も立たぬやうにこしらへ、路を堀り切って、穽しをかまへ、橋をはづし溝を深くして、その内に7つの城をこしらへ」とあります。 |
主郭・黒丸城、掘割中心の城構え想定
―「城跡考」などと異なる― |
福井市史の「足羽7城」の新たな見方は、「城跡考」や「日本城郭全集」などが示すー福井市街地周辺に点的に位置する7城ではなく、黒丸城の掘割(地を掘って水を通した所ーほり)を中心とした城の構えを想定。
具体的には、九頭竜川(北側)と日野川(西側)、足羽川(南側)を天然の掘割と見立てて、九頭竜川と日野川の交わる位置に黒丸城、南端に北庄城、北端に勝虎城(しょうとらじょう)の3ヵ所を結び、その地続き範囲一帯の重要地を掘割で幾重にも区切って、曲輪(城・砦の周りを土塁、石垣、堀などで区画した区域)を築いたと考えており、「それらのうち勝虎城や北庄城などの主要な曲輪が7つの城に相当するのではないか」という。 |
「太平記」巻20の記述矛盾を指摘 |
福井市史が指摘する「太平記」巻20の記述矛盾をいくつか挙げると、義貞が波羅蜜(はらみ)・安居・河合・春近・江守の5ヵ所へ兵をさし向け、斯波方の拠る足羽の城を攻めたーということに関し、「1番手に一条行実が江守より出撃し黒竜明神の前にて合戦する」とあるが、これについては「前後の文脈から推しても江守城での争奪戦を意味しているとは限らない」。
また「同じく2番手の船田政経の場合は、安居の渡し(人や荷物を舟で向こう岸に運ぶ)で細川出羽守と合戦した」とあるが、これについては「安居の渡しを渡る方向が西からとも東からとも受け取れ曖昧である」。
ただ、「3番手の細屋右馬助が河合荘より押し寄せて『北の端なる勝虎城』を取り巻いて合戦した」というくだりは、「合理的でそのまま理解できる」という。
その上で、近世後期の地誌「城跡考」が示す北庄城・安居城・江守城・小黒丸城・勝虎城・藤島城・波羅蜜城については、「それぞれ振り分けた城館名は、各荘園内での拠点的な位置をもつ城とすべきであって、高経が籠城戦に際して急造したにわか仕立ての城と考えては、地理的関係からも文脈から推しても腑に落ちない」としている。 |
さらに「太平記」巻21の記述矛盾も指摘 |
さらには、同書巻21でも記述の矛盾を指摘。
義貞の不慮の戦死後、大勢を立て直した(脇屋)義助が再度黒丸城を攻め立て、高経が加賀へ落ち延びるくだりがあり、この時、「5つの城」に火をかけて落ちていったというが、これについても「もし仮に『城跡考』のいう足羽7城のうちの5つの城とするなら、波羅蜜・和田・江守・安居などは義助方が攻め落としており、この時点でも該当しないことになる」という。 |