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朝倉氏遺跡を歩く  

 項  目
「唐門」四季の移ろい

【西側山裾を散策】
下城戸ー豪壮な構えに戦国気風
瓢町ー職人の町屋跡
赤淵・奥間野ー寺院跡、町屋跡
八地谷・雲正寺
月見櫓、復元武家屋敷
【義景館跡庭園】
館跡庭園、特に注目される点
義昭御成に馳せる思い
館跡庭園の園地、数寄屋南縁中心に構成
医師の屋敷跡にも平庭遺構
 

[義景館跡庭園]

2021.6  

初期の書院造庭園、草創期の茶座敷・茶庭に注目
ー一乗谷庭園遺構15以上、医者屋敷跡からもー

 特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡の庭園遺構で、日本庭園史上特に注目される点は、良好な状態の建物・庭園遺構に加え、座敷からの座観を主目的とした初期の書院造庭園を具体的に探れることといい、一方では、草創期の茶座敷・茶庭の構成などを知る手がかりとして期待されています。

 また一乗谷庭園遺構は、朝倉氏一族関係はじめ武家や医者など様々な階層でみられることから、社会的立場・階層と庭園構成の関係がわかるとして、この観点からも関心は高いようです。

 

 

 


「義景館跡全景」
日本最古の
「花壇」(中央)

 
 常御殿(当主が居住、政務・大規模宴の場)の南に広がる義景館跡庭園は、山裾の池庭(水を溜めた園池をもつ庭園)と中庭で構成。中庭は(取り外し可能な)塀の仕切りを境に花壇と平庭(水を用いず石組等で作庭された庭園)から成る。

 常御殿南側に平庭と花壇。さらにその南側東寄りには歌会・月見・能などを行う会所(泉殿)、平庭東側には茶の湯を行う数寄屋があります。



上(北側)「常御殿」
常御殿前
「花壇」仕切り境右側「平庭」
平庭右(東側)
「数寄屋」
平庭下(南側)
「会所(泉殿)」
会所(泉殿)右(東側)
「池庭」
 
15代将軍足利義昭、永禄11年5月に義景館御成
ー初夏の風情を肴に盃重ねながら能を堪能かー

 15代将軍足利義昭の義景館御成は永禄11年(1568)5月17日。山に囲まれた一乗谷はその頃、樹々は瑞々しい若葉が生い茂り日ごとに青々とした生気をみなぎらせていくー。義昭は清々しい風景に心地よさを感じながら館の門をくぐったのだろう。

 常御殿の宴では十二間南面に着座。東南方向にみえる平庭や池庭、さらには右下花壇の初夏の風情を肴に、もてなす側の義景とともに、満面に笑みを浮かべ盃を重ねながら、正面左側の会所(泉殿)で繰り広げられる“能の舞い”を堪能していたのではないか。

一乗谷川から望む「義昭館跡」


「唐門」
(朝倉氏遺跡の遺構ではありません)

 

常御殿、数寄屋、会所(泉殿)など3方からの眺め想定
ー館跡庭園園地、数寄屋南板縁から眺め中心に構成ー

 一方、平庭は常御殿、数寄屋、会所(泉殿)3方からの眺めが想定されることから、その構成も合わせて極めて綿密に設計されているといい、例えば数寄屋座敷からは平庭を鑑賞し、座敷南の縁に座れば、平庭とは違う趣で池庭を愉しめるという。

 ところで平庭にある(池庭からの)排水溝については、流れの水を利用した「流れ手水(手を洗って清める)」を取り入れたデザインとも考えられているようです。

 具体的には、京の都で流行っていた緑泥片岩(りょくでいへんがん)などの伏石(ふせいし)がバランスよく置かれ、粒ぞろいの美しい小砂利が全面的に敷かれているほか、
美しい流れ模様の海石「安島石」を遠くから取り寄せて使うなど、鑑賞に向くよう遣水(やりみず=庭に水を導き入れるように作った小さな流れ)風に工夫。

 また数寄屋と会所(泉殿)には、縁から降り立つための沓脱ぎ石(安島石)がそれぞれ据えられている。

 さらには、当時は手水(ちょうず)の作法が普及していたことから、「流れ手水」の見方があるようです。

 もっとも、義景館跡庭園の園池(庭園と泉水)は、数寄屋、会所(泉殿)と一体的に組み立てられたとしながらも、池庭の滝口はじめ周囲の石の向きから、茶事(少人数で行う正式なフルコースの茶会)で、中立ちの(いったん外にでる)場としての利用を想定し、数寄屋の南板縁からの眺めを中心に構成されたと考えられているようです。


 このような背景があって義景館跡庭園は、「初期の書院造庭園」に「草創期の茶庭」が複合した庭園として、極めて貴重な遺構とみられているようです。






「常御殿」右上「数寄屋」
「会所(泉殿)」
「花壇」塀 境に真ん中「平庭」


数寄屋座敷 からみる 「平庭」


数寄屋 南側板縁 からみる 「池庭」
   

上級武士で採用されている「薬医門跡」この門から家の格は高いという。
門の前は「南北幹線道路」と直交する
「東西道路跡」

一乗谷朝倉氏遺跡 15以上の庭園遺構を確認
―朝倉氏一族ほか武士や医者の屋敷跡からもー

 一乗谷朝倉氏遺跡で確認されている15以上の庭園遺構については、朝倉氏一族関係だけでなく武士や医者など様々な階層の屋敷からも発掘。

 例えば、上級武士の屋敷で採用される形式、薬医門(本柱内に控え柱二本を建て切妻屋根をかけた門)を設置した「医師の屋敷跡」(赤淵・奥間野地区)では、長径約3㎝の砂利を敷き詰め、高さ70㎝の立石中心に計3石を配置した「平庭跡」を確認。

 この庭には、巨石を利用した蹲踞(つくばい=しゃがんで手水する)様石組を設置し、縁から降り立つための「沓脱ぎ石」(くつぬぎいし)を兼ねたという、大きく平たい石(長径130m)も備えています。

 一方、庭園の主な目的については、南側の表向き(武家屋敷玄関に設ける広い部屋)座敷からの観賞といい、屋敷の規模は小さいが、薬医門を設置していることから、家の格は高いという。



南側「表向き座敷」からみる「平庭跡」
観賞が主眼という。
「東西道路跡」向こうには
大きな屋敷跡が2軒みえます。


手前、巨石を利用した
「蹲踞(つくばい)様石組」
左「表向き座」


[西側の山裾を散策]

ー概略ー
「下城戸」
地区から、西側山裾にある「朝倉遺跡遊歩道」を南へ歩いて行くと、道路沿いにカワラケ(素焼きの器)職人町屋跡と道路跡が確認できます。
「瓢町」(ふくべまち)地区。

そこを過ぎて間もなく、
寺院跡・町屋跡のある
「赤淵・奥間野」地区に。

さらに、山沿いに沿って南へ歩いて行くと、多くの人々が住んでいたーという
「八地谷・運正寺」(やちだに・うんしょうじ)地区に。

さらに南へ向かうと、復元武家屋敷近くの
「月見櫓跡付近」に。
 

「下城戸」            2021.5.15

豪壮な構えに戦国の気風=10t中には40t超す巨石
ー運搬・石積技術に驚嘆ー

 敵の攻撃や侵入を防ぐー重要な防御施設「下城戸」の出入り口です。重さ10tを超す巨石。中には40tを超すものもあるといい、豪壮な構えに圧倒されます。当時の高度な運搬技術や石積み技術に驚嘆するばかり。一方では戦国の気風が伝わってくるようです。

 左側土塁(幅約15m高さ約4.5m)外側のお濠(幅約10m深さ約3m)は、南北に流れる一乗谷川と交わっていたようです。

 また下城戸の造りは、外側から町が見通せないー矩折(かねおれ)状に。真っ直ぐ南へ進み、突き当たりを左(東側)に曲がると広場があります。 そこを右(南側)に曲がって町に入っていたようです。
 

「瓢(ふくべ)町」
カワラケ(素焼きの器)職人の「町屋跡」

「道路跡」は「南北道路跡」と「東西道路跡」が直交。
道路跡に沿ってカワラケ職人の「町屋跡」が確認できます。


瓢(ふくべ)町付近の「道路跡」

 

カワラケ(素焼きの器)
「職人の住まい跡」
右「南北道路跡」は
上(東西道路跡)と直交。
 
   
「道路跡」に沿って
「町屋跡」(赤淵・奥間野地区)
手前と左側 「道路跡」
越前焼大甕(がめ)のある「紺屋跡」
手前「紺屋跡」に沿って「東西道路跡」
右側「南北幹線道路跡」
「赤淵・奥間野」
「計画的な町割」の城下町=「町屋跡」や「サイゴージ寺跡」、「医者の屋敷跡」など確認、便器の一部・木製「金隠し」も

 寺院跡・町屋(町人が住む店舗併設屋敷)跡のある「赤淵(あかぶち)・奥間野(おくまの)」地区です。特に「赤淵・奥間野」地区は、「平井・河合殿」地区とともに町屋が集中しているといわれています。
この地区では「町屋跡」のほか、「サイゴージ寺跡」、「医者の屋敷跡」などが確認できます。
またこの地区の「町屋跡」から便器の一部・木製「金隠し」がみつかり、考古学的に日本初の「トイレ遺構」と確認されました。

 道路は「計画的な町割」に基づいているといい、町屋跡は、一軒の間口が約6m奥行約12mと小規模ですが、道路に面して軒を接して立ち並んでいたという。

 町屋の人たちは、道行く人々に商いの声を掛け合っていたのでしょうか。歩いていると、そんな活気に満ちた町の光景が甦ってきそう。

 ちなみに、出土遺物などから、越前焼大甕(おおがめ)を備え付けた紺屋(こうや)のほか、油屋や酒屋、檜物師(ひものし)、鍛冶屋、塗師、大工、数珠屋(じゅずや)など、商店や職人の家が軒を接して並んでいたと考えられているようです。
                        2021.5.15

「本堂跡」が土塁で囲まれた
「サイゴ―寺跡」
手前「東西道路跡」
「南北幹線道路」に直交。


戦国城下町の日常 寸劇で再現
級武士で採用されている「薬医門跡」この門から家の格は高いという。
門の前は「南北幹線道路」と直交する
「東西道路跡」

南側「表向き座敷」からみる
「平庭跡」
観賞が主眼という。
手前は巨石を利用した
「蹲踞(つくばい)様石組」
この辺の「町屋跡」から便器の一部・木製「金隠し」がみつかったことから
日本初の「トイレ遺構」と確認
 
「八地谷雲正寺地区」
多くの寺院、谷の奥まで多くの人が住む

 寺院跡・町屋跡の南側は「八地谷・雲正寺(やちだに・うんしょうじ)」地区。雲正寺はじめ多くの寺院が建っていたという。

 八地谷は通称「八地千軒」といい、東西道路跡は八地谷川に沿って谷の奥まで続き、屋敷が建て込み多くの人が住んでいたようです。

 当時では珍しい石積の護岸-多くの掘立柱建物跡

 一乗谷城下町を縦断する南北幹線道路跡は、八地谷川に沿って奥へ続く東西道路跡に直交。八地谷川は当時では珍しい石積の護岸が施され、その南側には多くの掘立柱(ほったてばしら)建物跡がみえます。




「南北幹線道路跡」に直行する
「東西道路跡」は、 八地谷川に沿って 奥へ続く。
石積が施されている
「八地谷川の護岸」

多くの寺院が建っていた
「雲正寺地区」。
手前「南北幹線道路跡」に直交する
「東西道路跡」
奥に
「掘立柱(ほったてばしら)建物跡」がみえる。
 
「月見櫓跡付近」

  さらに南へ「月見櫓跡」付近を過ぎると、まもなく「復元武家屋敷」の矩折(かねおれ)状「道路跡」が外から確認できます。ここからは有料です。
2021.5.15


「雲正寺地区」から続く
「南北幹線道路」
「月見櫓跡」
付近。
突き当り
「復元武家屋敷」

「復元武家屋敷」
外からみえないように
「矩折(かねおれ)状」の
「南北幹線道路跡」


「唐門」 四季の移ろい  

 朝倉氏遺跡を象徴する代表的な「唐門」です。朝倉義景館跡の西側入口に建っています。

 しかし、この門は朝倉氏の遺構ではなく、豊臣家が朝倉滅亡後、朝倉氏五代義景の菩提を弔うため移築寄進した松雲院(しょううんいん)の正門と伝えられています。       2021.5