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中世の藤島荘

誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(後の藤島荘)
―義仲説、頼朝説、頼朝追認説ー
鎌倉初期大規模開発=開発など「藤島荘」故地4村
―荘官居館地「藤島」と用水で結ばれ一体化―

南北朝期「重藤名」が起源=「重藤村」
ー鎌倉初期「藤島下郷公文」置かれるー
年貢の絹綿、全国屈指の量=藤島荘と坂北荘
ー鎌倉期の頃、盛んな養蚕の勢いー
源義仲「藤島7郷」平泉寺に=藤島の庄の起源
ー倶利伽羅峠の戦い大勝で、福井市史(昭和版)ー
 
2022.8

誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(藤島荘)
―義仲説、頼朝説、頼朝追認説ー

平安期の頃、「中ノ郷」の「一保」として、
発生したのが起源とされる「福井市藤島町」。

 平安期の頃、「中ノ郷」(郷は50戸で構成。1戸は郷戸ー10人前後から100人以上といい、少なくとも当時の東藤島一帯が呼ばれていたと見られる)の「一保」(保は5戸で構成)として発生したーとされる「藤島保」(藤島領ともいう。後の荘園「藤島庄」=福井市藤島町)。

 吾妻鏡(あづまかがみー鎌倉幕府の史書)建久元年(1190)4月19日記事には、「藤島保、以牒状触平泉寺」とあり、そのころ既に「平泉寺領で世に知られていた」というが、「誰が平泉寺に寄進したのか」ーについては「源義仲説」「源頼朝説」「(義仲寄進を)頼朝追認説」の諸説あり、興味が尽きない。

「頼朝寄進」と見るも「義仲藤島7郷寄進」併記
ー吾妻鏡など重視、福井県史・福井市史―

 福井県史・福井市史などは、平家物語に見える「義仲の藤島7郷寄進」を併記しているものの、吾妻鏡や門葉記(もんようきー延暦寺青蓮院の記録)などの史料を重視して「頼朝が平家没官領(へいけもっかんりょう)を寄進した」との記述が目につく。
 今後は、県史・市史の記述に沿って「頼朝寄進説」が一般的見方になりそうですが、一方では「義仲の寄進を頼朝が追認」(福井県の地名ー平凡社)との見方もあることから、今後の研究動向を見守りたいものです。  福井県史はこの件に関し、「藤島荘は、平家没官領(へいけもっかんりょう)として頼朝が領知(領有して支配)していたが、白山権現の神膳に充てるため、平泉寺(大野郡)に寄進された」としている。

平家没官領、義仲・行家へ最終的に頼朝=福井市史

  一方この件について福井市史も、藤島保は「平家没官領」(へいけもつかんりょう=寿永2年・1183都落ち以来朝敵として没収された全国500余ヶ所という平家一門所領)として、「頼朝が平泉寺に寄進した」といい、
 平家没官領ついては「後白河法皇が源義仲・源行家に与えたが、最終的には頼朝のものになった」としている。

藤島助近相伝私領、本領主平重盛とも=藤島保
ー平家方助近加賀で戦死、頼朝支配にー

  また、頼朝が平泉寺に寄進したーとされる平家没官領・藤島保について福井市史は、「藤島保」は、右衛門尉・藤島助近(有名な利仁将軍の子で武士団集団斎藤党等の祖・藤原叙用の6代目助宗【河合斎藤の始】の4代目)相伝の私領で、本領主は平重盛ともいわれる。

 平家方助近は、「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」(富山・石川の県境)後の「篠原の合戦」(石川県加賀市)で戦死したため、所領は没収され頼朝の支配となり、「頼朝は藤島保を白山権現に長日供料田(ちょうじつくりょうでん)として寄進した」としている。

平家物語の「藤島7郷」、存在疑わしい
ー史料で確認は上・下郷と高木郷のみー

 もっとも、木曽義仲が寿永2年(1183)「倶利伽羅谷の戦い」大勝謝恩のため平泉寺に寄進したとされるー平家物語に見える「藤島7郷」について福井市史は、「これが藤島の庄となり、藤島郷の地名になった」いうが、史料で確認できるのは上郷・下郷の2郷と高木郷だけーとして、「こうした郷(藤島7郷)があったのか非常に疑わしい」としている。

頼朝寄進、義仲打倒後「追認」との見方も

 ただ、福井県の地名(平凡社)はこの件について、義仲、頼朝それぞれが寄進したとされる「藤島荘」が、同一のものであるとすれば、「頼朝の寄進は、義仲打倒後、その寄進を追認する形で行われたことになるだろう」としている。

2022.6
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南北朝期越中から藤島郷久末へ ー照厳寺 福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守
南北朝期が起源=「福万村」ー北端に新田義貞戦没地 南北朝期が起源=「重藤村」

鎌倉初期大規模開発=開発など「藤島荘」故地4村
―荘官居館地「藤島」と用水で結ばれ一体化―


「藤島荘」荘官居館地はこの付近にあった、とみられている。
「西超勝寺」(福井市藤島町=藤島城址ともいわれる)



中世の読み方、今に伝える行政地名
「開発」(かいほつ)ですが、
公園名にも地名が残されている。
「開発公園」(福井市西開発3丁目)

藤島通り「重藤」信号交差点付近。
左側歩道下に(「芝原用水」の)
「八ヶ用水」が流れている。
 「藤島荘」の故地といわれ、鎌倉初期には大規模な開発が行われたーと伝えられる「開発」(かいほつ)など4村。   福井市街地北部の通称・「藤島通り」にあって、「開発」(福井市開発町、西開発1-4丁目)、「久末」(幾久=幾久町、大宮1丁目)、「重藤」(大宮3丁目、二の宮4丁目)、「福万」(二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)と東西に並ぶ。
 これらの地域には、江戸初期に大規模拡張・改修が行われた「芝原用水」外輪(そとわ)の分流、「八ヶ(はっか)用水」(「椗木〈じょうのき〉用水」または「椗木九ヶ用水」)が今でも流れていますが、すでに鎌倉期には、「藤島荘」の中心で荘官居館地があったとみられる「藤島」(藤島町)から4村までーお互いが用水で結ばれ、東西の広い地域が荘園として一体化していた、と考えられています。

 この一体化について福井県史は、「東端の藤島が荘園名になっていることに象徴されるように、荘域の田地の維持を保証する用水の成立と維持に関係する、と思われる」としている。

 時には、(「芝原用水」の)「八ヶ用水」が流れる「藤島通り」を散策して、往時を忍ぶひと時を大切にしたいものです。

慈円、藤島荘収入勧学講費に=同荘開発も進める

 一方、鎌倉初期建久6年(1195)天台座主(比叡山の最高職)慈円(じえん)は、(源頼朝が寄進した)「藤島荘」からの収入で経費を賄う「勧学講」を延暦寺で開始。
 その後、建仁2年(1202)頃には、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき=皇族・公家が住職を務める特定の寺院)領「藤島荘」が成立したーという。
 「藤島荘」の大規模な開発はこのような背景の中で進められた。

 この開発について福井市史は、「慈円自ら、新田を加作し地利を増し、満作の計略員を加う、と述べているように、鎌倉初期に大規模な開発がなされた」という。
 一方で福井県史は、「慈円は、(平泉寺・延暦寺の)本末関係を利用して藤島荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込でいった」と述べている。

鎌倉初期「藤島荘」年貢米4800石と絹綿3000両

 「藤島荘」の年貢とその配分について福井市史は、鎌倉初期・建暦2年(1212)の目録では、当時の藤島荘年貢は米4800石と綿(当時の綿は養蚕の産物の絹綿)3000両。

 米4800石のうち1000石は平泉寺に留保され、2800石が勧学講以下延暦寺山上や慈円の京都御堂の経費に充てられた。残り1000石が本家の無動寺(大津市)を官領する青蓮院門跡の本家の年貢。
 絹綿3000両は勧学講の経費1700両と本家分1300両に分けられたという。

中世の読み方、今に伝える「開発」(かいほつ)

 このように中世の歴史が伝わってくる「藤島通り」ですが、「藤島荘」由来の旧名が行政地名に残っているのは「開発」だけ。
 同荘の「名」(みょう=荘園・国衙領における年貢などの収納単位)に由来しているというー「久末」、「重藤」、「福万」の行政地名が見えなくなり残念に思いますが、住民からも惜しまれる声が聞こえてきそう。

行政地名
「開発」
は藤島荘の開発に由来するもの。しかも、「かいほつ」という中世の読み方を今に伝える。

「久末」については、照厳寺(しょうごんじ)2代目覚順が応安7年(1374)に越中国氷見から「吉田郡藤島郷久末邑(ひさまつむら)」に移住したーと伝えられる。

「重藤」については、鎌倉初期この地域(後の重藤名)には、「藤島の荘」下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行う機関「下郷公文(くもん)」が置かれていた。

 福井県史によると、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)は、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えている、という。

「福万」については、観応3年(1352)の妙香院宮御参院引付」には「…藤島庄内福満名被行之」と「福満名」の名前が見えるという 。

2022.3 ページトップ

南北朝期「重藤名」が起源=「重藤村」
ー鎌倉初期「藤島下郷公文」置かれるー


南北朝期「重藤名(みょう)」が偲ばれる「重藤公園」
(福井市大宮5丁目)

 南北朝期の名田(開墾・買得などで取得田地に取得者の名を冠した田)、「重藤名」(しげふじみょう)が起源とされる江戸期「越前国藤島郷重藤村」(福井市大宮3丁目、二の宮4丁目)。
 この地には鎌倉初期、年貢米の管理・徴収を行う管理機関「藤島下郷公文(くもん)」が置かれていたとされる。

「重藤名」について福井県史は、貞和3年(1347)9月、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)尊円法親王(そんえんほうしんのう=青蓮院17世門跡)が、同親王そば近くに仕えた瑚子丸に「下郷公文跡重藤名」を与えているーとしている。
 

一方、「藤島下郷公文」は、「藤島の庄」上・下郷のうち、下郷(しものごう)の年貢米管理・徴収を行い、(藤島城址とされる西超勝寺の地と伝えられる)同庄庄官の居館地「藤島」とともに、「藤島の庄」の中心を成していたーみられている。
 

「藤島下郷公文」はその後、領主が度々変わったことから(鎌倉期とみられる頃に)廃絶され、南北朝初期にその跡地に名田(みょうでん)として開発されたーとされる。


2021.11
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越前で古墳期に「絹織物」生産 平安期の福井中心部、伊勢神宮に絹献上

年貢の絹綿、全国屈指の量=藤島荘と坂北荘
ー鎌倉期の頃、盛んな養蚕の勢いー

 中世の頃、坂北荘(坂井市)とともに養蚕(蚕を育て繭をとる)が盛んだった藤島荘(福井市)ー。
 鎌倉期には両荘とも、年貢として納める絹綿(きぬわた=原料に絹を用いた綿)は「全国屈指の量」(福井市史)に達していた。
 絹綿は米と並び、当時の代表的な年貢品目だったが、鎌倉初期の年貢絹綿は、藤島荘が三千両と越前でも突出し、坂北荘の場合は一万両で越前のみならず全国でも最大級。

養蚕の興隆、朝倉期の「軽物座」発生を促す

 この養蚕の盛んな勢いは、朝倉期の明応2年(1493)には、人家・商家が軒並み続く町場(市街地)が形成された「足羽3カ庄」に、軽物(絹布)の取引特権的集団「10人衆軽物座」の発生を促した。

中世以降、比較的高級な絹生産が盛んに

 中世以降、越前でも比較的高級な絹織物の生産が盛んになったーというが、永禄11年(1568)5月17日 、15代将軍足利義昭が朝倉義景館に御成した際には、義景は義昭に、練貫10面(縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)、白綿(当時の綿は養蚕産物の絹綿)を献上したーという。 
           足利義昭、朝倉義景館 御成に馳せる思い

全国的に高級品として定評、絹布や綿織物
ー朝倉氏、他国の原料直接買い禁止ー

 10人衆「軽物座」は、3カ庄はじめ一乗、三国などを商域に活動し、その後、3カ庄や三国などは城下町・港町として発展。
 当時、3カ庄で扱っていた絹布や綿織物は、高級品として領内ほか全国的にも定評があり、その原料となる糸・綿に他国の商人が注目したらしい。
 このため朝倉氏は、「他国の商人が直接生産者から糸・綿を買い付けることを禁止」(同)する措置を講じていた。

神宮領「足羽御厨」、伊勢神宮に絹織物を献

 また一方では、北庄(現在の福井市中心部)前身の神宮領「足羽御厨」(あすわみくりや)は、伊勢神宮に「上分絹七疋・口入廿疋」を納入していたーというが、越前では早くから絹業が起こり、それが北庄中心の「軽物座」に発展したーとも考えられています。

2021.7
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源義仲「藤島7郷」平泉寺に=藤島の庄の起源
ー倶利伽羅峠の戦い大勝で、福井市史(昭和版)ー

 倶利伽羅峠(くりからとうげ=富山県と石川県の境にある砺波山の峠)の戦いで平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の大軍に大勝した源義仲(みなもとのよしなか)は、平泉寺へ「藤島の7郷」(旧東藤島、中藤島、西藤島の各村、および円山西の各村=藤島郷42村)を寄進。

 これが「藤島の庄」の起こりといい、のちの、南北朝時代の戦いに大きな影響を与えたといわれています。  源平時代(12世紀後半)、「越前の戦い」で源軍は、燧ケ城(ひうちがじょう=越前国今庄)にたてこもったが、城中指揮官・平泉寺長吏(ちょうり=最高指導者)の平軍への寝返りに遭い城は陥落し、平軍はまもなく越前・加賀を平定。

 しかしその後、義仲軍は巻き返しを図り、倶利伽羅峠の平軍との戦いで大勝した。

 このあと永平寺長吏は処刑されたが、義仲は、「予想以上の大勝利は全くの神霊の加護によるもの」として、平泉寺に対しては、越前藤島7郷を寄進したと伝えられています。

「藤島郷42村」(福井市史)

開発村、新保村、大和田村、堂島村、下中村 、上中村、原目村、中ノ郷村、泉田村、藤島村、鍛冶町村、林村、北野上村、北野下村、中新田村、下新田村、寺前村、高柳村、経田村、重藤村、町屋村、大願寺村、幾久村、高木村、舟橋村、舟橋新村、灯明寺村、福万村、牧野島村、上里村、八ッ島村、別所村、郡村、黒丸村、土橋村、安竹村、上伏村、海老助村、地蔵堂村、三ッ屋村、西堀村、堀ノ宮村