福井散策 和服リフォーム フラメンコ

古墳期~平安期を巡る

法隆寺に匹敵する五重の塔、篠尾廃寺
ー白鳳期初めの巨大礎石、跡地に今も
主祭神が継体天皇の式内社、足羽神社 平安期「額田郷」、福井市海老助
ー継体天皇孫・額田皇女と関係か

古墳期に「絹織物」量産化ー越前市朽飯町
ー越前・若狭の絹織り始め2、3世紀ともー

5世紀に技術集団=日本に大変革もたらす
越前と若狭の古墳から経錦や綴織の絹片ー生産地に注目

「越の国」大首長の「石棺」に笏谷石
ー古墳時代に始まる「笏谷石の文化」ー

九頭竜川取水口を押さえ地域首長を支配
ー笏谷石刳抜式石棺、最高位の象徴ー
巨大な古墳の築造、後継者の力ためされる
ー手繰ケ城山古墳、権力を視覚的に表現ー
継体天皇の母・振姫、大首長墳の系譜に連なる
ー六呂瀬山古墳群麓に、振姫の故郷「高向」
手繰ケ城山古墳に、初代大首長の威容
ー大和政権の重要な石製腕輪を生産ー
笏谷石、青みを帯びてキメ細かい美しさ
ー2トンの石棺、水上経由で丘陵上へー
古墳時代前期後半から後期における大首長の大型前方後円墳
2023.2
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法隆寺に匹敵する五重の塔、篠尾廃寺
ー白鳳期初めの巨大礎石、跡地に今も


「篠尾廃寺」跡(福井市篠尾町)遠望。
写真中央の巨石はその塔の心柱を支えていた「礎石」(塔心礎)。


「篠尾廃寺」跡の巨大な「礎石」(塔心礎)。
水田地帯畑地に、野ざらし状態で置いてあり、
いつでも見ることができる。

 
白鳳期の天武10年(681)には法隆寺(奈良県)に匹敵する五重の塔が建っていたとみられるー古代初期寺院「篠尾廃寺」(福井市篠尾町)。
 篠尾廃寺の名称は「かつて篠尾村の南方水田中に所在した廃寺」の意味で使われており、創建当時の寺名は明らかでない。
 その跡地は、福井市内から国道158号線を足羽川に沿って大野市に向かう途中、天神橋交差点を左折した所の水田地帯にあり、畑地には今でも、塔の心柱(しんばしら)を支えていた巨大な「礎石」(塔心礎)が野ざらし状態で置いてある。
 礎石は長さ2〜2.6メートル高さ1.2メートル 。彫られた柱を納めるための「柱座 」は径88センチメートルに達し、礎石を中心に一辺12.1メートルの正方形「基壇」(塔の土台)も確認された。

塔・金堂中心に回廊めぐる壮大な「瓦葺伽藍」

 出土した軒丸瓦(白鳳期前葉)や大量の屋根瓦から、この辺りには、仏舎利(釈迦の遺骨)をまつる塔、仏像を安置する金堂などを中心に周囲を回廊がめぐるー壮大な「瓦葺伽藍」(かわらぶきがらん)が平安期初めまで建っていたとみられる。

深草廃寺(越前市)とともに北陸最古とも


篠尾廃寺(福井市篠尾町)と並び北陸最古とみられる ー「深草廃寺」は、
龍泉寺(越前市深草)境内が跡地とみられる。

 
したがって、遺構が、龍泉寺(越前市深草)の広い寺域(南北250メートル東西170メートル)に重なっているとみられるー「深草廃寺」と並び福井県内で最も古く北陸最古ともいう。

創建、足羽郡の最有力豪族・生江氏とも
ー飛鳥期には中央や東大寺と太いパイプ

 
また創建は、足羽郡の最有力豪族・生江氏とも伝える。
 生江氏は、生江臣がみえる「大和国飛鳥京跡出土木簡」(天武10年ー681ごろ)を根拠に早くから中央や東大寺と太いパイプがあったとみられ、「天武10年にはすでに篠尾廃寺が建っていた」(福井県史)と考えられている。
 また、生江川(足羽川)上流の生江の地(江上郷・江下郷=酒生・和田と岡保の一部)が「生江氏の本貫(本拠)という説」、篠尾廃寺背後にある北陸最大規模の酒生古墳群が「生江氏の墓という説」ーそれぞれが有力視されていることも、そのように伝える背景にあるようです。

 

2021.12
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平安期「額田郷」比定地、福井市海老助町
―「和名類聚抄」の足羽群10ヶ郷の1つー


平安期「額田郷」の比定地、福井市海老助町
南北に流れる日野川の上(右岸)

 平安中期の足羽郡10ヶ郷の1つ、「額田郷」に比定(比較して推定)されている日野川右岸の福井市海老助町(えびすけちょう)。

 西藤島村史によると、同町が「額田郷」に比定されたのは、日野川の渡し(人・貨物を舟で向こう岸に渡す)が、古くから「糟溜」(ぬかたび)の渡しーと呼ばれていたことによる。

 延長年間(923-930)、源順(みなもとのしたごう)の日本最古・最大百科辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)によると、当時の足羽郡には草原郷、安味郷、中野郷、額田郷、足羽郷など10ヶ郷(高山寺本の和名抄は15ヶ郷)が記載されているという。

 額田郷のほか、草原郷は後の芝原の地、安味郷は旧藤島村舟橋の地、中野郷は旧東藤島中ノ郷、足羽郷は九十九橋南・足羽山麓の地ーと見られている。

額田、継体天皇孫・額田部皇女との関係か

 額田の地名の起こりについては、「足羽社記」から、継体天皇の孫・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=後の日本最初の女帝・推古天皇)と特別な関係があったとの見方もある。

 しかし一方では、江戸期地域誌「越前古名考」には、古代の海老助地方は「ぬか」と呼ばれ、ここに「足羽の田部」が置かれたので、その田部を「ぬかの田部」といわれ、それが転じて地名も「ぬかたべ」と呼ばれるようになり、さらに略して「ぬかた」というようになったーとみられる。

継体天皇後裔・足羽臣の田部の説も

 「足羽の田部」の足羽については、西藤島付近の有力豪族で継体天皇の後裔ともいう「足羽の臣」とし、「ぬか」の地の農民は、足羽の臣を族長(氏上=うじのかみ)とする「足羽の氏」の部民(べのたみ=隷属する民)となって、足羽の臣が管掌する「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に、農産物を生産し納めていたーとも考えられている。 

 足羽の臣は、継体天皇の皇女、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)の後裔で、代々足羽神社の神主であったと伝えられ、正倉院には、天平神護2年(766)足羽郡小領を示す文書が今も残っているという。

 ちなみに、大和朝廷の頃は、「みやけ」(御料地の収穫物を収蔵した倉)に収納する農産物を生産していた農民を「田部」といい、同族の集まりの「氏」(うじ)に隷属。また「族長」は自分の家族を中心に他の部族も支配したとみられる。

2021.12
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主祭神が継体天王の式内社、足羽神社

主祭神が継体天皇の式内社、足羽神社
朝廷に祀られていた大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を足羽山に勧請したのが起源とされる

 足羽神社(福井市足羽1丁目=足羽山の東北部山上)は、平安中期「延喜式」神名帳に記載されている式内社。

 主祭神は継体天皇。継体天皇が男大迹王(おほどのおう)として越前で活動していた頃、朝廷に祀られていた大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を足羽山に勧請したのが起源とされる。

 大宮地之霊は、坐摩神(いかすりのかみ)ともいい、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、波比祇神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)ー5柱神の総称。 

後を継体天皇の皇女、馬来田姫女に託す

 男大迹王(おほどのおう)が58歳で第26代天皇に即位した時、越前国を離れるに当たり、継体天皇の皇女、馬来田皇女(うまくだのひめみこ)に斎主(神主)として後を託したーと伝えられる。

 

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                  2021.9
「越の国」大首長の「石棺」に笏谷石
ー古墳時代に始まる「笏谷石の文化」ー

 福井県では「石」をテーマにしたストーリーが日本遺産に認定され、古代から足羽山(福井市)で採掘されてきた「笏谷石の文化」への関心が高まっているようですが、古墳時代には「最高位の象徴」として大首長にのみ使われたというー笏谷石をくり抜いて造られた「刳抜式石棺」(遺骨埋葬施設)に注目し、往時を偲びたいものです。

身・蓋それぞれ約50トンの「笏谷石」をくり抜いて造られた2トン余の「家形刳抜式石棺」(龍ヶ岡古墳=5世紀初め足羽山)。福井市郷土歴史博物館に展示中。六呂瀬山古墳群と松岡古墳群の大型前方後円墳には、いずれもこれと同じ造りの笏谷石で造られた「刳抜式石棺」が納められているという(形式は異なり割竹形や舟形)。


九頭竜川取水口を押さえ地域首長を支配
ー笏谷石刳抜式石棺、最高位の象徴ー

 「越の国」(敦賀以北の福井、石川、富山、新潟の各地域)を治めたー絶大な権力者が眠る聖地、六呂瀬山古墳群(坂井市丸岡)と松岡古墳群(永平寺町松岡)。
 福井・坂井の両平野を潤す九頭竜川の両岸にあって、北側丘陵上には、全長140メートル北陸最大の六呂瀬山一号墳(第2代目)や同三号墳(第3代目)、南側丘陵上には、手繰ケ城山古墳(第1代目)はじめ5基(松岡古墳群)の4世紀中頃から6世紀中頃までの大型前方後円墳が連綿と続くが、このようなことは「全国的にみても珍しい」(福井県史)とか。

 これら大首長は、九頭竜川の取水口を押さえ流域各地区の首長を支配していたとみられ、いずれも「最高位の象徴」として笏谷石をくり抜いて造られた「刳抜式石棺」に埋葬されているようです。


巨大な古墳の築造、後継者の力ためされる
ー丘陵頂の大首長墳、広域支配者なればこそー

 なぜこのように大きな前方後円墳が築かれたのかー。これについては「巨大な古墳を築くことは、古墳に葬られた豪族の力を次代の首長として受け継ぐことにより、財力、技術力をはじめ組織動員力など、後継者としての力がためされる場だった。手繰ケ城山古墳もまた、支配者の権力を視覚的に表現したもの」(永平寺町教育委員会)と考えられています。

 また大首長墳の大型前方後円墳が、いずれも標高160?270メートルの丘陵頂上に築造されていることについては、「これは広域を見渡せ、広域を支配する首長墳なればこその立地といえる」(福井県史)としています。

初代大首長の「手繰ケ城山古墳」から福井・坂井の両平野を望む 。 手繰ケ城山古墳の俯瞰図


継体天皇の母・振姫、大首長墳の系譜に連なる
ー六呂瀬山古墳群麓に、振姫の故郷「高向」

 ところで、六呂瀬山古墳群の麓には、5世紀中ごろ夫である彦主人(ひこうし)王の死後、嫁ぎ先の近江高島郡から幼い男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)を連れて帰り養育したというー母・振姫の故郷「三国・坂名井(さかない)の高向(たかむく)」(坂井市丸岡町高岡=高向神社境内「高向の宮跡」)がありますが、振姫は「この(大)首長墳の系譜に連なるものと考えられる」(福井県史)という。

 一方では、「このような首長系譜に属したからこそ、彦主人王のもとに嫁ぐことができたのであろう」(同)とも。


手繰ケ城山古墳に、初代大首長の威容
ー大和政権の重要な石製腕輪を生産ー

 もっとも、4世紀中?後期の手繰ケ城山古墳(第1代目)は、(永平寺町教育委員会の案内板では)全長129メートル北陸で2番目の規模ですが、笏谷石をくり抜いて造られた「割竹形刳抜式石棺」に加え、九頭竜川の河原から手渡しで運ばれたという数十万個の葺石(ふきいし)、円筒埴輪や家型埴輪など三千本近くの埴輪は、大首長の誕生と威容を示し、大和政権との極めて密接な関係が伝わってくるようです。

 その密接な関係としては、大和政権が全国各地の地方豪族に贈ったとされるー鍬形石(くわがたいし)や石釧(いしくしろ)など「石製腕輪」の生産のほとんどを、大首長管掌の下で受けもっていたという、ことが考えられます。

「石釧」(いしくしろ=龍ヶ岡古墳、5世紀初め足羽山)という古墳時代の「石製腕輪」=大和朝廷が地方豪族に贈ったとされる石製腕輪のほとんどは、「越の国」を支配した大首長の管掌下で生産されていたという。 福井市郷土歴史博物館に展示中。


笏谷石、青みを帯びてキメ細かい美しさ
ー2トンの石棺、水上経由で丘陵上へー

 福井県の名石「笏谷石」は、比較的加工しやすく、青みを帯びてキメ細かい色合いが美しい。大首長が石棺に使ったのは、この独特の風合いに魅せられたのではないだろうか。

 埋葬者の「石棺」は大首長管掌の下、足羽山の石棺工房で、身と蓋それぞれ約50トンの割石(形が不揃いに割った石)をくり抜いて造られる。

 そして、計2トン余の身・蓋を筏に乗せて足羽川を下り、九頭竜川を上って松岡、丸岡の両岸へ。そこから再び修羅(大きな石などを運ぶソリ)に載せて、標高160?270メートルの丘陵頂上に築かれた古墳にまで運ばせたーと考えられています。

 足羽山で石棺を造り丘陵上の古墳まで水上経由で運ぶーダイナミックなスケールに、絶大な権力者の偉大さが伝わってくるようです。

足羽山東麓の「朝日山不動寺」にある「笏谷石露天掘り跡」。採掘は明治中頃まで。古代は露天掘り、江戸時代から「七ツ尾口」で坑道を掘って採掘始める。 「七ツ尾口」と呼ばれる地下採掘跡。足羽山北西麓の「笏谷」(福井市足羽5丁目)に位置する。「笏谷石」名称にもなっている。


【六呂瀬山古墳群と松岡古墳群における歴代大首墳】

 (福井県史より※各教育委員会の公表数字と異なる場合があります)
〇古墳前期後半から中期の大首長墳
 1、手繰ケ城山古墳
(松岡、125メートル、割竹形刳抜式石棺)
2、六呂瀬山一号墳
(丸岡町、140メートル、舟形刳抜式石棺2個)
3、同三号墳
(110メートル、舟形刳抜式石棺?未確認)
4、石舟山古墳
(松岡、85メートル、舟形刳抜式石棺)
5、二本松山古墳
(松岡、90メートル、舟形刳抜式石棺2個)

〇古墳後期の大首長墳
 6、鳥越山古墳
(松岡、65メートル舟形刳抜式石棺2個)
7、三峰山古墳
(松岡、64メートル舟形刳抜式石棺?未確認)


割竹形石棺=身・蓋両断面は竹を半裁したような半円形
舟形石棺=身は舟形、蓋は屋根形
家形石棺=身は箱型、蓋は屋根形

年代は割竹が最も古く次いで舟形、家形の順。

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六呂瀬山古墳群i入口

六呂瀬山古墳群の俯瞰図。 トンネル越えて右側が入口(写真左上がトンネル出口)。
六呂瀬山一号墳の「後円部墳頂」

六呂瀬山一号墳の「奥の後円部から手前にかけて前方部」

六呂瀬山一号墳・前方部から、
九頭竜川対岸に見える松岡丘陵地
六呂瀬山一号墳の山肌に露出している
(当時のものと思われる)葺石

六呂瀬山一号墳から出土した
「家形埴輪」









「六呂瀬山古墳群」麓にある男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)の母・振姫の故郷、高向神社境内の「高向の宮跡」。
男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)の母・振姫のイメージ像=坂井市教育委員会
男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)のイメージ像=坂井市教育委員会

「六呂瀬山古墳群」(正面)。九頭竜川を挟んで対岸丘陵上には松岡古墳群があります。

 
  2021.11
平安期の福井中心部、伊勢神宮に絹献上 年貢絹綿全国屈指=藤島荘と坂北荘
                       
古墳期に絹織物量産化ー越前市朽飯町
ー越前・若狭の絹織り始め2、3世紀ともー
 越前・若狭(福井県)では2、3世紀頃には絹が織られていたーともいわれていますが、機織の発祥地、越前市(旧武生市)朽飯町(くだしちょう)にある「幡生(はたお)神社」には、5世紀後半、朽飯町で養蚕と絹織物が生産されていたと伝えられています。 
継体大王が副業から専業・量産化、と伝わる

 その頃、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)は武生盆地を拠点に活動していたとされ、鉄器や織物などの職業を副業から専業化し量産化を図ったーとみられており、古墳時代には越前で絹織物の専業・量産化が始まっていたようです。

 同神社によると、5世紀前半の允恭天皇(いんぎょう)時代、織部司(地方官)に任じられ赴いた服部連(はとりべむらじ=家柄示す称号「姓」を賜り機織を職とする部族)が、当地一帯を「服部郷」と命名。

 その後、顕宗天皇(485~487)の時代に、百済国から機織に優れた織姫が渡来し、養蚕と絹織物を郷民に教え、そこで生産された絹織物は貢物として朝廷に上納していたという。

越前・若狭の絹生産、古墳期以前の説も

 もっとも、越前・若狭における絹織物生産の起源については、古墳期以前の説もあるようです。

 福井県繊維協会によると、「2、3世紀ごろ、大陸から集団で移民してきた人々(渡来人)が、越前、若狭地方にも移り住むようになり、その家族(娘や妻)が絹織物を織り始めた、ともいわれている」という。

 しかし一方では、養蚕・絹織物の技術が渡来人から日本に伝わった時期について、3世紀後半とする説もあるが、記紀(古事記と日本書紀)には仲哀天皇(4世紀後半)時代に養蚕の記録があるらしい。
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「幡生神社」(越前市朽飯町)のある
「八幡神社」境内

八幡神社にある「幡生神社」
 
 
 
 
 

                       2021.6
越前と若狭の古墳から絹織物
ー生産地に注目ー

 福井県内では、古墳中期の古墳2箇所から絹織物布片が発掘されています。    

 5世紀後半、武生盆地(越前市=旧武生市)にある朽飯町(くだしちょう)では、養蚕・絹織物が生産されていたと伝えられていますが、発掘されたこの絹片はどこで生産されたのか。福井県が繊維の産地だけに発掘絹片の生産地が気になります。

 また5世紀後半は、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)が、武生盆地を拠点に活動していたとされる頃で、職業の専業化、量産化を図ったとも伝えられていますし、この観点からも、発掘された絹織物の生産地に注目したいものです。

  
十善の森古墳(6世紀初め)から経錦

 絹織物布片の発掘が確認された遺跡の一つは、十善の森古墳(6世紀初め福井県若狭町)です。

 小鉄片に付着していた「経錦」(たてにしき=経糸で地の文様を織り出す錦)の絹片を発掘。どこで生産されたのでしょうか。 

 ちなみに、十善の森古墳から出土した「
経錦」は1992年まで日本最古とされていましたが、福井県によりますと、現時点では3世紀中頃の古墳(ホケノ山古墳=奈良県桜井市 )から「経錦」が出土しているようです。
このほかにもその可能性がある資料があるという。


龍ヶ岡古墳(5世紀初め)から平織と綴織
 一方、龍ヶ岡古墳(5世紀初め福井市)からは「平織」(ひらおり=縦横の糸を1本ずつ交差させて織る最も基本的な織り方)と「綴織」(つづれおり=模様織物の一種、綴錦ともいう)の絹織物布片2種類を発掘。

「平織」と「綴織」の絹片については繊維質が大陸とは違うことから、地元あるいは北陸(福井、石川、富山の各県)で生産されたのではないか、と考えられているようです。

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                       2021
5世紀に技術集団、日本に大変革もたらす

 古墳時代中期の5世紀初めには、土木や灌漑(かんがい)、治水など多くの技術集団が、同後半には新しい技術を持った集団がそれぞれ大陸から日本にやってきたといいます。

 5世紀後半といえば、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)が武生盆地(越前市)を拠点に活動していたと伝えられており、新技術集団が渡来した5世紀後半には、武生盆地(越前市)にも従来の技術に加え新しい技術がもたらされ、鉄器や焼き物、絹織物などの本格生産が始まり、日本に大きな変革をもたらしたーと考えられているようです。

 「古渡才伎」と「今来才伎」が日本に渡来 

 具体的には5世紀に入ると、技術集団「古渡才伎」(こわたりのてひと=土木や農業、灌漑、養蚕、機織、治水、焼き物、馬、船、鉄器、漢字・学問などの技術者ら)、同後半には、新しい技術集団「今来才伎」(いまきのてひと=例えば新しい焼き物・須恵器の技術者、新しい馬具の技術者、新しい絵画の技術者、綾錦など上質絹織物の技術者など)がそれぞれ渡来し、日本に大きな変革をもたらしたらしい。

男大迹王(後の継体天皇)職業専業化し量産化

 男大迹王(後の継体天皇)は、従来の「古渡才伎」の多くの技術・文化と、「今来才伎」の新技術・文化をうまく調和させて生産力の増加を図ったーとみられています。

その結果、鉄器や織物などそれぞれの職業は副業から専業化、集落が形づくられ大量生産が可能になったーといい、絹織物発祥の地、越前市朽飯町(くだしちょう)でも専業化・量産化が進み繁栄したようです。

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「経錦」の発掘が確認された「十善の森古墳」(6世紀初め福井県若狭町)




「平織」「綴織」2種類の絹織物が発掘された「龍ヶ岡古墳」(5世紀初め福井市)
現在は案内板のみ