ギャラリー木漏れ日 和服リメイク フラメンコ
継体天皇のロマンを愉しむ  
 項  目
機織発祥地で5世紀後半に絹織物生産=幡生神社に伝わる
越前と若狭の古墳から経錦や綴織の絹片 5世紀に技術集団=日本に大変革もたらす
 

                                2021.6
機織発祥地で5世紀後半絹織生産
  -朽飯町「幡生神社」に伝わる-

 機織の発祥地、越前市(旧武生市)朽飯町(くだしちょう)にある「幡生(はたお)神社」です。

 5世紀後半、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)が武生盆地を拠点に活動していた頃には、朽飯町では、養蚕と絹織物が生産されていたと伝えられています。

 同神社によると、5世紀前半の允恭天皇(いんぎょう)時代、織部司(地方官)に任じられ赴いた服部連(はとりべむらじ=家柄示す称号「姓」を賜り機織を職とする部族)が、当地一帯を「服部郷」と命名。

 その後、顕宗天皇(485~487)の時代に、百済国から機織に優れた織姫が渡来し、養蚕と絹織物を郷民に教え、そこで生産された絹織物は貢物として朝廷に上納していたという。


3世紀後半、日本に絹織物の技術

 もっとも日本には、養蚕と絹織物の技術が3世紀後半には渡来人から伝わっていたとされ、記紀(古事記と日本書紀)にも仲哀天皇(4世紀後半)時代に養蚕の記録があるらしい。

 これらのことから服部連は、服部郷で養蚕と絹織物の技術を教えて、副業的生産を始めていたようにもみえます。

「幡生神社」(越前市朽飯町)のある
「八幡神社」境内

八幡神社にある「幡生神社」
 
 
 
 
 
                               2021.6
■□越前と若狭の古墳から絹織物

 福井県内では、古墳中期の古墳2箇所から絹織物布片が発掘されています。

  5世紀後半、武生盆地(越前市=旧武生市)にある朽飯町(くだしちょう)では、養蚕・絹織物が生産されていたと伝えられていますが、発掘されたこの絹片はどこで生産されたのか。福井県が繊維の産地だけに発掘絹片の生産地が気になります。

 また5世紀後半は、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)が、武生盆地を拠点に活動していた頃で職業の専業化、量産化を図ったとも伝えられていますし、福井県が繊維の産地だけに、この観点からも、発掘された絹織物の生産地に注目したいものです。

  
十善の森古墳(6世紀初め)から経錦

 絹織物布片の発掘が確認された遺跡の一つは、十善の森古墳(6世紀初め福井県若狭町)です。

  小鉄片に付着していた「経錦」(たてにしき=経糸で地の文様を織り出す錦)の絹片を発掘。どこで生産されたのでしょうか。 

 ちなみに、十善の森古墳から出土した「
経錦」は1992年まで日本最古とされていましたが、福井県によりますと、現時点では3世紀中頃の古墳(ホケノ山古墳=奈良県桜井市 )から「経錦」が出土しているようです。
このほかにもその可能性がある資料があるという。


龍ヶ岡古墳(5世紀初め)から平織と綴織
 一方、龍ヶ岡古墳(5世紀初め福井市)からは「平織」(ひらおり=縦横の糸を1本ずつ交差させて織る最も基本的な織り方)と「綴織」(つづれおり=模様織物の一種、綴錦ともいう)の絹織物布片2種類を発掘。

 「平織」と「綴織」の絹片については繊維質が大陸とは違うことから、地元あるいは北陸(福井、石川、富山の各県)で生産されたのではないか、と考えられているようです。

 
 

「経錦」の発掘が確認された「十善の森古墳」(6世紀初め福井県若狭町)




「平織」「綴織」2種類の絹織物が発掘された「龍ヶ岡古墳」(5世紀初め福井市)
現在は案内板のみ
                                 2021.6
■□5世紀に技術集団、日本に大変革もたらす

 古墳時代中期の5世紀初めには、土木や灌漑(かんがい)、治水など多くの技術集団が、同後半には新しい技術を持った集団がそれぞれ大陸から日本にやってきたといいます。

 5世紀後半といえば、男大迹王(おほどのおう=後の継体天皇)が武生盆地(越前市)を拠点に活動していたと伝えられており、新技術集団が渡来した5世紀後半には、武生盆地(越前市)にも従来の技術に加え新しい技術がもたらされ、鉄器や焼き物、絹織物などの本格生産が始まり、日本に大きな変革をもたらしたーと考えられているようです。


「古渡才伎」と「今来才伎」が日本に渡来

 具体的には5世紀に入ると、技術集団「古渡才伎」(こわたりのてひと=土木や農業、灌漑、養蚕、機織、治水、焼き物、馬、船、鉄器、漢字・学問などの技術者ら)、同後半には、新しい技術集団「今来才伎」(いまきのてひと=例えば新しい焼き物・須恵器の技術者、新しい馬具の技術者、新しい絵画の技術者、綾錦など上質絹織物の技術者など)がそれぞれ渡来し、日本に大きな変革をもたらしたらしい。


男大迹王(後の継体天皇)職業専業化し量産化

 男大迹王(後の継体天皇)は、従来の「古渡才伎」の多くの技術・文化と、「今来才伎」の新技術・文化をうまく調和させて生産力の増加を図ったようです。。

 その結果、鉄器や織物などそれぞれの職業は副業から専業化、集落が形づくられ大量生産が可能になったーといい、絹織物発祥の地、越前市朽飯町(くだしちょう)でも専業化・量産化が進み繁栄したようです。