古(いにしえ)を偲ぶ ふるさと 和服リメイク フラメンコ

ふるさと「新田義貞」ゆかりの地 、「越前朝倉氏」起こりの地

「正中の変」勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜と共に「藤島神社」宝物ー

朝倉氏一乗谷居城、早くて14世紀後半か
項目
「新田義貞」ゆかりの地
「越前朝倉氏」起こりの地
「波しぶき」
称念寺にある新田義貞公墓所
新田義貞公墓所、
早春の頃(称念寺)


「新田義貞」ゆかりの地 2022.6
鎌倉初期大規模開発=「藤島荘」故地
福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守


江戸期には「福万村」の鎮守として鎮座していたという。
本殿御垣内の一対の燈篭に手がかり。


 古くから「福万村」の鎮守として鎮座していたーという「福万白山神社(薬師神社)」(福井市大宮3丁目=芦原街道・大宮交差点付近南東側) 。

江戸期には現在地=本殿御垣内燈篭に手掛かり
 同神社参拝しおりによると、創立年月は不詳としていますが、本殿御垣内(みかきうち=拝殿の奥、神様の聖域)に残る一対の燈篭には、「天保6年嶋嵜彌八郎嗣、米岡加兵衛、菅沼與市郎寛次」と刻まれていることから、江戸期には「福万村」の鎮守として現在地に鎮座していたーと考えられています。
50世帯春山地区で活動=福万連合自治会
 「福万白山神社(薬師神社)」の現所在地は、江戸期「重藤村」地域になりますが、大宮3丁目の50世帯が「福万連合自治会」(福万自治会)の名称で、春山地区で自治会活動をしています。
後世に長く伝えたい「福万」の歴史
 南北朝期「福満名」が起源の「福万」ー。行政地名だけでなく停留所の名称にも見えなくなり寂しい限りですが、「福万白山神社(薬師神社)」の伝承とともに、「福万公園」や「福万連合自治会」(福万自治会)の名称を通じて、後世に長く「福万」の歴史を伝えていきたいものです。
          2022.3
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地「新田塚」  
南北朝期「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没伝承地・燈明寺畷ー


南北朝期「福満名(みょう)」が偲ばれる「福万公園」
(福井市二の宮5丁目)

 南北朝争乱期「藤島の戦い」で、南朝方・新田義貞が戦死した所と伝えられる通称・燈明寺畷(福井市新田塚町)。

 江戸期「越前国藤島郷福万村」(福井市二の宮5丁目、大宮4丁目、新田塚町)の北端に位置し、その村名の起源は、名田(みょうでん=開墾・買得などによる取得田地に取得者名を冠した田)「福満名」(ふくまんみょう)とされる。

 南北朝期・観応3年(1352)の「妙香院宮御参院引付」には、「…藤島庄内福満名被行之…」とあるという。

 福井市福万町の町名は今はなく惜しまれますが、「福万公園」に往時の「福満名」が偲ばれます。

2021.11
越前で古墳期に「絹織物」生産 平安期の福井中心部、伊勢神宮に絹献上
年貢の絹綿、全国屈指の量=藤島荘と坂北荘
ー鎌倉期の頃、盛んな養蚕の勢いー

 中世の頃、坂北荘(坂井市)とともに養蚕(蚕を育て繭をとる)が盛んだった藤島荘(福井市)ー。
 鎌倉期には両荘とも、年貢として納める絹綿(きぬわた=原料に絹を用いた綿)は「全国屈指の量」(福井市史)に達していた。

 絹綿は米と並び、当時の代表的な年貢品目だったが、鎌倉初期の年貢絹綿は、藤島荘が三千両と越前でも突出し、坂北荘の場合は一万両で越前のみならず全国でも最大級。

養蚕の興隆、朝倉期の「軽物座」発生を促す
 この養蚕の盛んな勢いは、朝倉期の明応2年(1493)には、人家・商家が軒並み続く町場(市街地)が形成された「足羽3カ庄」に、軽物(絹布)の取引特権的集団「10人衆軽物座」の発生を促した。
  足利義昭、朝倉義景館 御成に馳せる思い
中世以降、比較的高級な絹生産が盛んに
 中世以降、越前でも比較的高級な絹織物の生産が盛んになったーというが、永禄11年(1568)5月17日 、15代将軍足利義昭が朝倉義景館に御成した際には、義景は義昭に、練貫10面(縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)、白綿(当時の綿は養蚕産物の絹綿)を献上したーという。
全国的に高級品として定評、絹布や綿織物
ー朝倉氏、他国の原料直接買い禁止ー

 10人衆「軽物座」は、3カ庄はじめ一乗、三国などを商域に活動し、その後、3カ庄や三国などは城下町・港町として発展。

  当時、3カ庄で扱っていた絹布や綿織物は、高級品として領内ほか全国的にも定評があり、その原料となる糸・綿に他国の商人が注目したらしい。

 このため朝倉氏は、「他国の商人が直接生産者から糸・綿を買い付けることを禁止」(同)する措置を講じていた。

神宮領「足羽御厨」、伊勢神宮に絹織物を献上
 また一方では、北庄(現在の福井市中心部)前身の神宮領「足羽御厨」(あすわみくりや)は、伊勢神宮に「上分絹七疋・口入廿疋」を納入していたーというが、越前では早くから絹業が起こり、それが北庄中心の「軽物座」に発展したーとも考えられています。
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2021.7
誰が平泉寺に寄進したのか=藤島保(後の藤島荘)
源義仲「藤島7郷」平泉寺に=藤島の庄の起源
ー倶利伽羅峠の戦い大勝で、福井市史(昭和版)ー

 倶利伽羅峠(くりからとうげ=富山県と石川県の境にある砺波山の峠)の戦いで平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の大軍に大勝した源義仲(みなもとのよしなか)は、平泉寺へ「藤島の7郷」(旧東藤島、中藤島、西藤島の各村、および円山西の各村=藤島郷42村)を寄進。

 これが「藤島の庄」の起こりといい、のちの、南北朝時代の戦いに大きな影響を与えたといわれています。

 源平時代(12世紀後半)、「越前の戦い」で源軍は、燧ケ城(ひうちがじょう=越前国今庄)にたてこもったが、城中指揮官・平泉寺長吏(ちょうり=最高指導者)の平軍への寝返りに遭い城は陥落し、平軍はまもなく越前・加賀を平定。

 しかしその後、義仲軍は巻き返しを図り、倶利伽羅峠の平軍との戦いで大勝した。

 このあと永平寺長吏は処刑されたが、義仲は、「予想以上の大勝利は全くの神霊の加護によるもの」として、平泉寺に対しては、越前藤島7郷を寄進したと伝えられています。

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2021.7
藤島の戦いの舞台となった藤島城址
ー比定地複数説も超勝寺が相応ー
白山平泉寺を歩く
広い範囲でみる「越前国 藤島の戦い」
ー理解がより深まり地域連携にも期待ー

 源義仲が平泉寺に寄進した「藤島7郷」は、下記の「藤島郷42村」(福井市史)と考えられていますが、往時の広い範囲を「地元」ととらえて歴史をみると、歴史をより身近に感じるのではないでしょうか。

 例えば、新田塚には、「国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)があります。

 しかし、「越前国 藤島の戦い」の舞台となったのは、平泉寺衆徒がこもった藤島城址(福井市藤島町)や、北朝方斯波高経が拠った黒丸城址(福井市黒丸町)などもあるわけですから、歴史の理解をより深めるためには、今の町内単位・行政区単位(新田塚あるいは明新地区・明新公民館エリア)ではなく、もっと広い範囲で歴史をみる必要があるのではないでしょうか。

 そのように考えることで、歴史の理解がより深まりますし、一方では、関係する各町内・公民館も、例えば「藤島の戦い」を往時の広い範囲「藤島郷42村」でみることで、連携がより深まるーことを期待したいものです。

 「藤島郷42村」(福井市史)

開発村 新保村 大和田村 堂島村 下中村
上中村 原目村 中ノ郷村 泉田村 藤島村
鍛冶町村 林村 北野上村 北野下村 中新田村
下新田村 寺前村 高柳村 経田村 重藤村
町屋村 大願寺村 幾久村 高木村 舟橋村
舟橋新村 灯明寺村 福万村 牧野島村 上里村
八ッ島村 別所村 郡村 黒丸村 土橋村
安竹村 上伏村 海老助村 地蔵堂村 三ッ屋村
西堀村 堀ノ宮村      


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 2021.7
義貞なぜ無防備で藤島城へ向かったのか
ー平泉寺はなぜ北朝方へ寝返ったのかー
 藤島城(砦=旧東藤島地区・西超勝寺)へ偵察に向かうのになぜ戦闘準備をしていなかったのか。多くの方が新田義貞の無防備な行動を疑問に思うのではないだろうか。

 また平泉寺がなぜ北朝方(足利勢)へ寝返ったのかについても、多くの方が高い関心を持っているのではないだろうか。
越前での南朝・北朝の戦いに大きな影響
 そう思うのは、「軽装で藤島城へ偵察」、「平泉寺の北朝方へ寝返り」が、越前での南朝・北朝の戦いに大きな影響を与えたと考えているからです。

義貞、灯明寺畷で戦死ー藤島城に向かう途中
ー総勢3万騎、「越前」平定目前にしてー

 振り返りますと、越後からの応援部隊と合流し総勢3万騎余りともいう南朝方の優勢な戦況のなかで、北朝方斯波高経が拠る黒丸城(福井市黒丸町)はじめ足羽の諸城に総攻撃を始めたのは、(延元3年・暦応元年)閏7月2日。

 ちょうどその日の夜、義貞は手兵50騎余を従えて(武装せず)軽装で藤島城に向かい、その途中灯明寺畷で、藤島城の援護に駆けつけるー北朝方高経の部将細川ら300余騎の軍勢に遭遇。

 義貞の従兵には射手もなく楯を持つ者もなく、義貞は致命的な傷を負い、自害して果てたと伝えられています。

 藤島城へ偵察に向かう直前の義貞は、戦況に手応えを感じて、少しでも早く越前を平定して京に攻めのぼろうーと自らに言い聞かせながら、手兵にも士気高揚を促していたのではないだろうか。

 そう考えて、義貞のあっけない最期に思いをはせると「返す返すも残念」に思うのです。

平泉寺の北朝方へ寝返りー義貞戦死の遠因
 ところで、平泉寺は過去に失った「藤島の庄」の寺領回復を条件に北朝方に寝返ったという。

 この失地回復は平泉寺にしてみれば宿願成就でもありましたが、「義貞が灯明寺畷で戦死したのも、このことが遠因になっている」(福井市史)とし、平泉寺の寝返りは戦況に大きな影響を与えたようです。

源頼朝、平泉寺「藤島の庄」一部を延暦寺に寄贈
ーそれ以来、寺領奪回を宿願にー

 もっとも、過去に失った「藤島の庄」の一部は、源頼朝(みなもとのよりとも)が建久6年(1195)に延暦寺へ寄進した。その代償として、平泉寺には同8年(1197)、今立郡池田の郷を与えたものの、平泉寺はそのことを深くうらみ、寺領奪回を宿願にしたという。
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2021.6
藤島の戦いに思いを馳せ、往時を偲ぶ
 南朝方新田義貞が戦死した「越前国 藤島の戦い」に思いを馳せ、往時を偲(しの)びたいものです。。

 新田神社(福井市新田塚)は、新田義貞が藤島の戦いで戦死したと伝えられているところ(灯明寺畷=とうみょうじななわて)です。

 義貞は、足利方斯波軍に寝返った平泉寺衆徒が立てこもる藤島城(砦)を偵察するため、本陣(灯明寺交差点白山神社付近。平泉寺末寺・天台宗「燈明寺」があったという)から藤島城へ軽装で向かったのですが、1キロ余り行ったところ(灯明寺畷)で、藤島城へ救援に向かう敵の歩射部隊と遭遇。ここで戦死したと伝えられています。

 藤島の戦いに遭わなければ、本陣には新田軍3万余騎が集結していたと伝えられていることから、300余騎にすぎなかったという斯波軍の本拠地、黒丸城(小黒丸城)の陥落も時間の問題ではなかったのか。

 藤島の戦いで戦死した南朝方・新田義貞の遺骸は、北朝方・斯波高経が長崎称念寺に埋葬したという。

 そこは、現在の新田義貞公菩提所・称念寺(福井県坂井市)です。同寺境内には立派な唐門があってその内側にお墓があります。

 また、新田義貞が使っていたとされる兜(国重文)は新田義貞を祭神とする藤島神社に保管されています。

項 目
福万白山神社(薬師神社)=福万村鎮守

南北朝「福満名」が起源=「福万村」
ー北端に新田義貞戦没地・燈明寺畷ー

絹綿、全国屈指=藤島荘と坂北荘
誰が平泉寺に寄進したのか=
藤島保(後の藤島荘)
源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー福井市史(昭和版)
広い範囲でみる「藤島の戦い」
義貞なぜ 無防備で藤島城に向かったのか
藤島の戦い、往時を偲ぶ
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地「新田塚」
「黒丸城址」 (福井市黒丸町)
「藤島城址」 (福井市藤島町)
「新田義貞菩提所・称念寺」
「藤島神社」(福井市毛矢町)
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 


正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜共に「藤島神社」宝物ー

国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社

 国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)です。

 江戸時代の明暦2年(1656)、農民がこの地の水田から新田義貞のものと思われる古兜(国重文)を見つけたことから、福井藩主4代松平光通(みつみち)が万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」の碑を建立。

 それ以来この地は「新田塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 新田義貞のものとされる兜(国重文)は、江戸時代の初期、灯明寺畷(福井市新田塚)の泥田で近くの農民が発見し、それを福井藩士の井原番右衛門が新田義貞のものと鑑定。

 鑑定結果は、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中を守護するという三十番の神号が沈刻してあったこと、義貞が暦応元年(1338)閏7月2日に兜が発見された付近で戦死したと伝えられていることーなどが決め手になったと伝えられています。


 

黒丸城址(福井市黒丸町)

 小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町)です。

石碑が建っているだけですが、当時の黒丸城(小黒丸城)は、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあります。

海運交通の重要な拠点だったことから、「(北朝方斯波)高経が築いた足羽7城の中でも随一の堅固を誇っていた」(石碑の説明)と伝えています。

 黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていませんが、これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷に移るまで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。

 高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。

それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。
 

  藤島の戦いの舞台となった藤島城址 ー比定地複数説も超勝寺が相応ー
藤島城址(福井市藤島町)

 藤島城址(福井市藤島町、西超勝寺)です。

義貞は、天台宗・灯明寺(福井市灯明寺の白山神社付近にあったという)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地付近で戦死したと伝えられています。

案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。


 

新田義貞公墓所・称念寺(福井県坂井市)

 「新田義貞公墓所・称念寺」(福井県坂井市)です。

 境内案内板によると、浪人中の明智光秀公が「称念寺」を訪ねたのが1562(永禄5)年。そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。

 江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。

 南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの「長崎称念寺」に埋葬したと伝えられています。

 境内に入ると立派な唐門がみえますが、その奥に義貞のお墓があります。唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されました。

 これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。

 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。

 新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。

 義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。

 
正中の変勃発伝える「結城宗広の書状」
ー義貞所用という古兜共に「藤島神社」宝物ー
藤島神社(福井市毛矢町)

 新田義貞公を祭神とする藤島神社(福井市毛矢町)です。

 義貞のものとされる国重文の兜が保管されているほか、義貞直筆といわれる古文書が残っています。この古文書は、専門家が調査に訪れるなど関係者の高い関心を集めているそうです。

 

「越前朝倉氏」起こりの地 朝倉頼景菩提寺、 曹洞宗・永春寺

朝倉遺跡を歩く

2021.12
 朝倉氏の一乗谷居城、早くて14世紀後半か
ー少なくとも15世紀初頭に遡るー

 朝倉氏の一乗谷居城は文明3年(1471)ーともいわれていますが、その居城の時期は早くて14世紀後半、少なくとも15世紀初頭にそれぞれ遡ると考えられています。

 これについて福井市史は、朝倉氏の一乗谷在城は少なくとも、越前朝倉4代目・為景(貞景)の15世紀初頭までさかのぼるものと思われる、とし、一方では、同2代目・高景が貞治5年(1366)の一乗谷・宇坂荘地頭職保有を機に、一乗谷を根拠地にした可能性が高い、とも述べています。

 孝景の父、教景も早くから一乗城麓に居館
ー南陽寺比丘尼の安原荘代官職も根拠にー


 15世紀初頭とする根拠の1つは、宝徳2年(1450)に死没した越前朝倉7代・孝景(一乗谷朝倉初代)の父、教景(家景)も一乗城の麓に居館していたこと。

 また、朝倉氏の客館・一乗谷南陽寺は、応永11年(1404)に死没した同3代・氏景(大功)の妻女(天心清祐大姉)が創建し、代々朝倉氏の子女が入寺する尼寺となったといい、朝倉氏一族の女子とみられる「南陽寺比丘尼(びくに)」が、足羽郡安原荘の代官職を勤めていたーいうことも根拠の1つに。

従来の説、孝景、文明3年(1471)一乗谷居城

 これまでは、南北朝の争乱期、北朝方・斯波高経に従い越前で戦った越前朝倉初代・広景は、藤島の戦い後、黒丸城(福井市黒丸町)を居城とし、孝景が文明3年(1471)に居城を黒丸から一乗谷に移した、といわれています。                        ページトップ

 

越前朝倉氏・初代広景、 黒丸城主に
−一乗谷に移るまで 6代130年間 居城−

 南北朝時代には、朝倉広景が足利一門の有力武将、北朝方の斯波氏に従って越前に入国。南朝方の有力武将、新田義貞など戦い、そののち黒丸城主(福井市黒丸町)に。これが越前朝倉氏の起こりです。広景から約130年間6代にわたり黒丸城を居城にしていたようです。
黒丸城は福井市黒丸町=三宅町説は誤り

 福井県の地名(平凡社)によると、黒丸城(福井市三宅町)説について「従来、南北朝期に越前に入国した朝倉広景以来、一乗谷へ移るまでの6代130年間、朝倉氏の居城とされていたが、近年の研究によって、これが誤りであることが指摘された」とし、その上で「近年、城跡より五輪塔が何基か発見されていることから『越前国名勝志の俗説二朝倉ノ時代祈願所寺院ノ跡トモ云う』が正しいかもしれない」としています。

 (従来の説=黒丸城については、大黒丸城(福井市三宅町)と小黒丸城(福井市黒丸町)の複数の説があって、越前朝倉氏・初代広景は、新田義貞との戦いの功により大黒丸城主になったといい、一方では6代孝景が一乗谷に移った時は、大黒丸が本城で小黒丸は支城だったーとも考えられていたようです)

居城を黒丸城から一乗谷へ

 そして文明3年(1471年)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城から一乗谷に移して町づくりを本格化させたようです。

 それから信長に滅されるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城となり、越前の政治、文化の中心として栄えました。

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項目
朝倉氏一乗谷居城、早くて14世紀後半か
越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に
 
 
 

 
 
 
 

波しぶき
2021年4月25日

戦国時代の日常、福井弁交えて再現
-今春も県内劇団員が寸劇披露-

 国の重要文化財•特別史跡•特別名勝の一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)で、往時の日常を体感しませんかー。
戦国城下町の日常を再現した恒例の寸劇が、今年も5月5日までの土日祝日に行われます。

 寸劇では、県内の劇団員らがふんした商人や武士、町人が行き交い、戦国時代の日常を福井弁を交えて再現。訪れる人々を楽しませくれます。

【参考まで】
戦国城下町の日常を再現の映像(2019年春撮影)
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2021年4月15日
駅前文化施設「響ホール」のフェスタ復活を期待
ー踊り・演奏の一般愛好家の情熱を活かそうー

 福井駅前の文化施設「響きのホール」は、駅前再開発に伴い閉館。同施設で毎年開催されていた「フェスタ」も昨年最後に幕を閉じました。

 しかしこの「フェスタ」は、踊り・演奏の一般愛好家が参加できる福井市内で数少ない催しだっただけに、同ホールの閉館が惜しまれる声も聞かれる。

 このためもし可能なら、(同文化施設は再開発ビルに設けないようですが)近辺の空きビルを活用するとか、既存の文化施設「フェニックスプラザ」を活用するとか、何らかの方法で「フェスタ」の復活が図れないものかーと思うのです。

 例えば「フェニックスプラザ」の活用では、同プラザで開催されている「舞台に上がろう」のイベントとタイアップして「フェスタ」の復活を図るとか。「フェスタ」単独で開催する選択肢もあるのではないでしょうか。

 いずれにしましても“活気ある街づくり”には、踊り・演奏一般愛好家の溢れんばかりの情熱・エネルギーを活かしていくことが欠かせません。このような視点から「フェスタ」の復活を期待したいものです。


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2021.4 ギャラリー「木漏れ日」写真一覧  

風景を切り取る醍醐味ー脳裏に「古城」の響き

 桜の満開のピークが過ぎて花びらが散り始めていましたが、あたり一面ピンク色が漂う華やかな風景は格別。いつみても美しい。

 この日は終盤・絶好の花見日和だったようです。ラッキーでした。

 とはいえ、貴重な文化遺産「福井城址」になぜ県庁舎がそびえているのか―気になる。 それは県庁舎が入らないように美しい風景を撮りたいから。

 そう思いながらも、どのように風景を切り取りとるか―2時間ほど悪戦苦闘しましたが、一方ではそれが写真の醍醐味かなとも。

 ところで、福井城址で往時に思いを馳せながら、三橋美智也さんが唄っていた昭和の名曲「古城」をギターの弾き語りで唄ってみたい―とも考えていた次第です。3人あるいは5人、10人で一斉に演奏するのもいい。

もっとも、夢が実現しなくてもその思いは大切にしたいものです。

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2021.4 ギャラリー「木漏れ日」写真一覧

尽きない興趣、写真と映像の世界ー気まぐれに楽しむ

 気まぐれに撮った名所旧跡の映像です。もっといろんな光景を考えていたのですが、思った通りに撮れませんでした。
しかし写真と二兎追っていたのですから、やむを得ないーと自らに言い聞かせているところです。

 とはいえ学習したこともあります。特に名所旧跡をネットにアップする場合は、映像の時間は一、ニ分 長くても三分までを目指すとか。 編集は大変ですが。

 もっとも、私は名所旧跡だけでなく、長い間フラメンコの踊りも撮っています。
またほかにも、写真(和服をリメイクしたドレスやワンピースなど)を動画にしてネットにアップして楽しんでいます。

 私にとっては、興趣が尽きない写真と映像の世界ですから、これからも気まぐれに二兎追い続けるのかも知れませんね。

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2014年吉日  

「新田義貞ゆかりの地」に誇りと愛着

 鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した新田義貞は、源義家(みなもとのよしいえ)の血を受けつぐ新田朝氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ=群馬県)で生まれ、灯明寺畷(とうみょうじなわて)=現福井市新田塚=で戦没したと伝えられています。

 歴史上の偉大な人物の一人、新田義貞のゆかりの地(新田塚)に住んでいることを知って、誇りと愛着を持つことは、心をより豊かにするーと考えています。
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2014年11月  

新田義貞ゆかりの地を巡る 「ストーリー」を作ろう

 私は日頃から、新田塚および周辺の新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を作って、地域の活性化を図ったらどうかーと思っています。

 福井市と隣接する坂井市丸岡町を中心とした継体天皇ゆかりの地などと連携を図ることも、一つの試みとして考えられるのではないでしょうか。


観光資源の発掘・連携目指そうー経済産業省も補助金で後押し

 最近の報道によりますと、経済産業省は、地方活性化の一環として、各地を巡るパッケージ事業などに補助金を出して後押しする、といいますし、各地域の住民が歴史にもとづく名所周辺の「ストーリー」つくりを研究することは、地域に埋もれた観光資源を発掘していくことにもなります。

 もっとも、福井県内に訪れる観光客は、朝倉遺跡(福井市)や恐竜博物館(勝山市)など有名な場所に集まる一方、周辺の史跡などに足を運ぶ人が限られる傾向にあるようです。

 しかし、効率的な観光客誘致を目指す観点からも、先進地成功事例の研究結果をご教示頂くとかー福井県や福井市のご支援・ご指導を得ながら、新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を一日も早く具体化したいものです。              
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波しぶき 項目
戦国時代の日常、福井弁交えて再現
駅前文化施設「響きホール」復活期待
風景を切り取る醍醐味
尽きない興趣、写真と映像の世界
新田義貞ゆかりの地に誇り
新田義貞ゆかりの地巡るストーリー