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「継体天皇」「新田義貞」ゆかりの地 「越前朝倉氏」起こりの地

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項目
「新田義貞」ゆかりの地
「継体天皇」ゆかりの地
「越前朝倉氏」起こりの地
「波しぶき」
 
称念寺にある新田義貞公墓所
新田義貞公墓所、早春の頃
(称念寺)

「越前朝倉氏」起こりの地  

越前朝倉氏・初代広景、 黒丸城主に
−一乗谷に移るまで 7代130年間 居城−

 南北朝時代には、朝倉広景が足利一門の有力武将、北朝方の斯波氏に従って越前に入国。南朝方の有力武将、新田義貞などと戦い、そののち黒丸城主に。これが越前朝倉氏の起こりです。広景から約130年間、7代にわたり黒丸城を居城にしていたようです。

黒丸城について、複数の説

 黒丸城については、大黒丸城(福井市三宅町)と小黒丸城(福井市黒丸町)があって、越前朝倉氏・初代広景は、新田義貞との戦いの功により大黒丸城主になったといい、一方では、7代孝景が一乗谷に移った時は、大黒丸が本城で小黒丸は支城だったーと考えられているともいわれています。

この一帯は 越前朝倉氏「起こりの地」「ゆかり地」

 不明なことが多く確かなことはわかりませんが、いずれにしてもこの地域一帯は、越前朝倉氏の「起こりの地」「ゆかり地」と捉えて、往時に思いを馳せながら、ふるさと福井の歴史を大いに楽しみたいものです。

居城を黒丸城から一乗谷へ
−越前朝倉氏早くから一乗谷に根拠地ー

 そして文明3年(1447年)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城から一乗谷に移して町づくりを本格化させたようです。

 それから信長に滅されるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城となり、越前の政治、文化の中心として栄えました。

 もっとも(これまでは)、孝景が文明3年(1447年)に一乗谷に築城し吉田郡黒丸城から移ったーという「朝倉始末記」の俗説が信じられていましたが、新たな資料から、(現在は) 越前朝倉氏は文明3年(1447年)以前の早くから、確実な勢力基盤を求めて、福井平野東南端の宇坂荘一乗谷などに根拠地を築いていたーと考えられているという。

 

新田義貞公ゆかりの地  
新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社

 JR福井駅から芦原街道を北へ15分ほど車を走らせると新田塚バス停が見えます。 そのバス停を降りると「新田神社」がありますが、ここが新田義貞公が戦死したと伝えられている所です。
「暦応元年閏七月二日、新田義貞戦死此所」と刻まれた石碑が建っています。

 この石碑は、江戸時代の明暦2年(1656)にこの地の水田から新田義貞のものと思われる古兜(国重文)が見つかったことから、福井藩主4代松平光通(みつみち)が万治3年(1660)に建てたと伝えられています。

 それ以来この地域は「新田塚」と呼ばれています。

 黒丸城址(小黒丸城址) は新田神社から北西へ5〜6キロのところ(現福井市黒丸町)にあります。

 義貞の最後となった藤島の戦いで、平泉寺宗徒が立て籠もったという藤島城址 は、新田神社から東へ7〜8キロのところ(現福井市藤島町、西超勝寺)にあります。

 新田義貞の菩提所・称念寺 は、新田神社から車で30分ぐらいのところ(坂井市丸岡町)にあります。

 境内案内板によると、浪人中の明智光秀は称念寺を訪れ、門前に寺小屋を建てて生活していたという。

 また江戸時代には、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。

 境内に入ると、立派な唐門がみえます。
新田義貞公墓所「称念寺」早春の頃(福井県坂井市)=動画


 藤島神社 は新田神社から南へ3〜4キロ南の足羽山中腹にあり、義貞のものとされる国重文の兜が保管されています。

このほか、義貞直筆といわれ関係者の関心を集めている古文書が残っています。

「新田塚」及び周辺の歴史を楽しんでいます
 御家人(将軍と主従関係を結んだ武士の身分)・武将、新田義貞公が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍していた頃に思いを馳せ、「新田塚」及び周辺の歴史を楽しんでいます。
 新田神社(福井市新田塚)は、新田義貞が藤島の戦いで戦没したと伝えれているところ(灯明寺畷=とうみょうじななわて)。

 義貞は、足利方斯波軍に寝返った平泉寺衆徒が立てこもる藤島城(砦)を偵察するため、本陣(芦原街道・灯明寺交差点白山神社付近でそこには平泉寺末寺の天台宗・燈明寺があったという)から藤島城へ軽装で向かったのですが、1キロ余り行ったところ(灯明寺畷)で、藤島城へ救援に向かう敵の歩射部隊と遭遇。ここで戦没したと伝えられています。

 藤島の戦いに遭わなければ、本陣には新田軍3万余騎が集結していたと伝えられていることから、300余騎にすぎなかったという斯波軍の本拠地、黒丸城(小黒丸城)の陥落も、時間の問題ではなかったのか。

 藤島の戦いで戦没した南朝方・新田義貞の遺骸は、北朝方・斯波高経が長崎称念寺に埋葬したという。そこは現在の新田義貞公菩提所・称念寺
  同寺には立派な唐門があってその内側にお墓があります。

 また、新田義貞が使っていたとされる兜(国重文)は新田義貞を祭神とする藤島神社に保管されています。

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継体天皇ゆかりの地    
 
 継体天皇の母の故郷 =坂井市丸岡町には、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)の母、振姫(写真右イメージ容姿)のふるさと―とされている「高向の宮の跡」(写真左)があります。

 夫(彦主人王=ひこうしおう)と死別後、嫁ぎ先の近江国高島郡三尾から帰郷し、ここで男大迹王を養育されたと伝えられています。
 大和よりの使者、大伴金村らと会見したところとされている「てんのう堂」です。

 男大迹王は、大和朝廷からの天皇就任要請を引き受ける58歳ごろまで、「高向の宮の跡」を中心に県内各地を移動しながら、精力的に活動していたようです。

 そのことは、坂井市三国町はじめ福井県内各地に数多く残る男大迹王の伝説からも、往時の活動ぶりが目に浮かぶようです。
・ 新しい門出(てんのう堂)
初代大首長墳とされる手繰ヶ城山古墳からの眺望   「六呂瀬山古墳群

初代大首長墳とされる 手繰ヶ城山古墳 からの眺望
・ 初代大首長の支配力実感

  六呂瀬山古墳群の同古墳1号墳 には、2代目大首長が埋葬され、北陸最大規模という
     
新田義貞伝説地、継体天皇ゆかりの地
ー歴史的に重要な地域ー

 新田義貞伝説地「新田塚」およびその周辺だけでなく、「高向の宮の跡」(坂井市丸岡町)を中心とした男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)ゆかりの地も歴史的に重要な地域ではないか―と思います。

 継体天皇即位1500年を迎える(2007年)頃、継体天皇の母・振姫のふるさと―とされる「高向の宮の跡」から、周辺の山々に連綿と続く歴代大首長の古墳群を見渡すたびに、”越の国”(敦賀東の福井、石川、富山、新潟の4県)のスケールの大きさや、その地域を治めていた大首長の偉大さを改めて実感し、そして大いに感動したものです。

 伝説によりますと、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)が越前住んでいた頃この地は、平地には大きな湖沼があって、足羽山は浮島になっていたといい、雨が降るたびに九頭竜川など三大河川が氾濫していたとか。
  そこで男大迹王は、三国付近の河口を切り開いて湖沼の水が海へ流れ出るようにしたーと伝えられています。

 その伝説からも、男大迹王は私どもの地域(新田塚)の氏神さんともいえそうですね。少なくとも二人の偉大な氏神さんに守られていることは、とてもありがたいことです。

 その感動が今も深く心に残り、日々の生活の中で往時に思いを馳せる時間があるのは、このうえなく幸せなことではないでようか。

・ 越の国大首長の偉大な支配力 
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波しぶき
2021年4月25日 トップページ

戦国時代の日常、福井弁交えて再現
-今春も県内劇団員が寸劇披露-

 国の重要文化財•特別史跡•特別名勝の一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)で、往時の日常を体感しませんかー。
戦国城下町の日常を再現した恒例の寸劇が、今年も5月5日までの土日祝日に行われます。

 寸劇では、県内の劇団員らがふんした商人や武士、町人が行き交い、戦国時代の日常を福井弁を交えて再現。訪れる人々を楽しませくれます。

【参考まで】
戦国城下町の日常を再現の映像(2019年春撮影)

2021年4月15日 トップページ
駅前文化施設「響ホール」のフェスタ復活を期待
ー踊り・演奏の一般愛好家の情熱を活かそうー

 福井駅前の文化施設「響きのホール」は、駅前再開発に伴い閉館。同施設で毎年開催されていた「フェスタ」も昨年最後に幕を閉じました。

 しかしこの「フェスタ」は、踊り・演奏の一般愛好家が参加できる福井市内で数少ない催しだっただけに、同ホールの閉館が惜しまれる声も聞かれる。

 このためもし可能なら、(同文化施設は再開発ビルに設けないようですが)近辺の空きビルを活用するとか、既存の文化施設「フェニックスプラザ」を活用するとか、何らかの方法で「フェスタ」の復活が図れないものかーと思うのです。

 例えば「フェニックスプラザ」の活用では、同プラザで開催されている「舞台に上がろう」のイベントとタイアップして「フェスタ」の復活を図るとか。「フェスタ」単独で開催する選択肢もあるのではないでしょうか。

 いずれにしましても“活気ある街づくり”には、踊り・演奏一般愛好家の溢れんばかりの情熱・エネルギーを活かしていくことが欠かせません。このような視点から「フェスタ」の復活を期待したいものです。



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風景を切り取る醍醐味ー脳裏に「古城」の響き

 桜の満開のピークが過ぎて花びらが散り始めていましたが、あたり一面ピンク色が漂う華やかな風景は格別。いつみても美しい。

 この日は終盤・絶好の花見日和だったようです。ラッキーでした。

 とはいえ、貴重な文化遺産「福井城址」になぜ県庁舎がそびえているのか―気になる。 それは県庁舎が入らないように美しい風景を撮りたいから。

 そう思いながらも、どのように風景を切り取りとるか―2時間ほど悪戦苦闘しましたが、一方ではそれが写真の醍醐味かなとも。

 ところで、福井城址で往時に思いを馳せながら、三橋美智也さんが唄っていた昭和の名曲「古城」をギターの弾き語りで唄ってみたい―とも考えていた次第です。3人あるいは5人、10人で一斉に演奏するのもいい。

 もっとも、夢が実現しなくてもその思いは大切にしたいものです。


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尽きない興趣、写真と映像の世界ー気まぐれに楽しむ

 気まぐれに撮った名所旧跡の映像です。もっといろんな光景を考えていたのですが、思った通りに撮れませんでした。
 しかし写真と二兎追っていたのですから、やむを得ないーと自らに言い聞かせているところです。

 とはいえ学習したこともあります。特に名所旧跡をネットにアップする場合は、映像の時間は一、ニ分 長くても三分までを目指すとか。 編集は大変ですが。

 もっとも、私は名所旧跡だけでなく、長い間フラメンコの踊りも撮っています。
またほかにも、写真(和服をリメイクしたドレスやワンピースなど)を動画にしてネットにアップして楽しんでいます。

 私にとっては、興趣が尽きない写真と映像の世界ですから、これからも気まぐれに二兎追い続けるのかも知れませんね。

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「新田義貞ゆかりの地」に誇りと愛着

 鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した新田義貞は、源義家(みなもとのよしいえ)の血を受けつぐ新田朝氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ=群馬県)で生まれ、灯明寺畷(とうみょうじなわて)=現福井市新田塚=で戦没したと伝えられています。

歴史上の偉大な人物の一人、新田義貞のゆかりの地(新田塚)に住んでいることを知って、誇りと愛着を持つことは、心をより豊かにするーと考えています。
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新田義貞ゆかりの地を巡る 「ストーリー」を作ろう

 私は日頃から、新田塚および周辺の新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を作って、地域の活性化を図ったらどうかーと思っています。

 福井市と隣接する坂井市丸岡町を中心とした継体天皇ゆかりの地などと連携を図ることも、一つの試みとして考えられるのではないでしょうか。
観光資源の発掘・連携目指そうー経済産業省も補助金で後押し

 最近の報道によりますと、経済産業省は、地方活性化の一環として、各地を巡るパッケージ事業などに補助金を出して後押しする、といいますし、各地域の住民が歴史にもとづく名所周辺の「ストーリー」つくりを研究することは、地域に埋もれた観光資源を発掘していくことにもなります。

 もっとも、福井県内に訪れる観光客は、朝倉遺跡(福井市)や恐竜博物館(勝山市)など有名な場所に集まる一方、周辺の史跡などに足を運ぶ人が限られる傾向にあるようです。

しかし、効率的な観光客誘致を目指す観点からも、先進地成功事例の研究結果をご教示頂くとかー福井県や福井市のご支援・ご指導を得ながら、新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を一日も早く具体化したいものです。

波しぶき 項目
戦国時代の日常、福井弁交えて再現
駅前文化施設「響きホール」復活期待
風景を切り取る醍醐味
尽きない興趣、写真と映像の世界
新田義貞ゆかりの地に誇り
新田義貞ゆかりの地巡るストーリー