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「新田義貞」ゆかりの地 「越前朝倉氏」起こりの地


「新田義貞」ゆかりの地 「越前朝倉氏」起こりの地 「波しぶき」

ふるさと福井ー平成のひと時3 ギャラリー木漏れ日写真一覧

 

 
称念寺にある新田義貞公墓所
新田義貞公墓所、
早春の頃(称念寺)

「新田義貞」ゆかりの地 項目  
「藤島郷」42村でみる「藤島の戦い」 源義仲「藤島の7郷」平泉寺に
ー「藤島の庄」起源
義貞なぜ 無防備で藤島城に向かったのか、
平泉寺なぜ北朝方へ寝返ったのか
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地「新田塚」由来 「黒丸城址」 (福井市黒丸町) 「藤島城址」 (福井市藤島町)
「新田義貞菩提所・称念寺」(福井県坂井市) 「藤島神社」(福井市毛矢町) 新田塚及び周辺の 歴史を楽しむ
 

国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

 国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)です。

江戸時代の明暦2年(1656)、農民がこの地の水田から新田義貞のものと思われる古兜(国重文)を見つけたことから、福井藩主4代松平光通(みつみち)が万治3年(1660)、この地に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」の碑を建立。

それ以来この地は「新田塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 新田義貞のものとされる兜(国重文)は、江戸時代の初期、灯明寺畷(福井市新田塚)の泥田で近くの農民が発見し、それを福井藩士の井原番右衛門が新田義貞のものと鑑定。

 鑑定結果は、唐草文の銀象嵌(ぎんぞうがん)のある四二間の筋線の間に、宮中を守護するという三十番の神号が沈刻してあったこと、義貞が暦応元年(1338)閏7月2日に兜が発見された付近で戦死したと伝えられていることーなどが決め手になったと伝えられています。


 

黒丸城址(福井市黒丸町)

 小黒丸城址(黒丸城=福井市黒丸町)です。

石碑が建っているだけですが、当時の黒丸城(小黒丸城)は、九頭竜、日野の二大川が合流する所にあります。

海運交通の重要な拠点だったことから、「(北朝方斯波)高経が築いた足羽7城の中でも随一の堅固を誇っていた」(石碑の説明)と伝えています。

 黒丸城(小黒丸城)の遺構は現状では確認されていませんが、これについて福井市史は「黒丸城(小黒丸城)は以後にも朝倉氏が居城し、一乗谷に移るまで使用されたとされていることから、なんらかの遺構の痕跡を残していることは十分考えられ、それらの位置、範囲などを確定される作業が急がれる」としています。

 高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になりましたが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。

それから6代約130年間はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています。
 

 
藤島城址(福井市藤島町)

 藤島城址(福井市藤島町、西超勝寺)です。

義貞は、天台宗・灯明寺(福井市灯明寺の白山神社付近にあったという)の本陣からあぜ道伝いに藤島城へ偵察に向かう途中、1キロ余り行ったところの燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地付近で戦死したと伝えられています。

案内板によると、藤島城を南朝方の足羽7城の一つに数える説もある。現在、北側に残る土塁の一部のほかは、当時の面影をとどめないが、地籍図では北側、東側に土塁、堀があったことが認められる、などと伝えています。


 

新田義貞公墓所・称念寺(福井県坂井市)

 「新田義貞公墓所・称念寺」(福井県坂井市)です。

境内案内板によると、浪人中の明智光秀公が「称念寺」を訪ねたのが1562(永禄5)年。そして門前に寺小屋を建てて生活をしていたという。

江戸時代に入ると、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。

 南朝方の新田義貞が1338年(暦応元年)7月2日、灯明寺畷(現福井市新田塚)の藤島の戦いで戦死した時、北朝方の斯波高経が義貞の遺骸をこの「長崎称念寺」に埋葬したと伝えられています。

境内に入ると立派な唐門がみえますが、その奥に義貞のお墓があります。唐門の戸を明けて中に入ると、2.6m余の五輪石塔に圧倒されました。

これは、福井藩主の松平宗矩が1837(天保8)年、義貞の500回忌にあたり、旧墓石を埋めてその上に建てたという。新田氏は徳川の祖先といわれていることから、福井藩主・松平家もこの菩提所をとても大切にしたようです。

 ところで称念寺の宗派、時宗(じしゅう)は、鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土教の一宗派です。

新田義貞と時宗の関係は、義貞の故郷の群馬県に時宗の有力な道場があったことから、その縁で、義貞も時宗の陣僧を連れていたと伝えられています。

義貞が越前で合戦していた頃、称念寺は越前の中心的な時宗の道場であったようです。ちなみに、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。

 
藤島神社(福井市毛矢町)

 新田義貞公を祭神とする藤島神社(福井市毛矢町)です。

義貞のものとされる国重文の兜が保管されているほか、義貞直筆といわれる古文書が残っています。この古文書は、専門家が調査に訪れるなど関係者の高い関心を集めているそうです。

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  2021.6
□□「新田塚」及び周辺の歴史を楽しんでいます
 御家人(将軍と主従関係を結んだ武士の身分)、新田義貞が鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍していた頃に思いを馳せ、「新田塚」及び周辺の歴史を楽しんでいます。

 新田神社(福井市新田塚)は、新田義貞が藤島の戦いで戦死したと伝えられているところ(灯明寺畷=とうみょうじななわて)です。

 義貞は、足利方斯波軍に寝返った平泉寺衆徒が立てこもる藤島城(砦)を偵察するため、本陣(灯明寺交差点白山神社付近。平泉寺末寺の天台宗「燈明寺」があったという)から藤島城へ軽装で向かったのですが、1キロ余り行ったところ(灯明寺畷)で、藤島城へ救援に向かう敵の歩射部隊と遭遇。ここで戦死したと伝えられています。

 藤島の戦いに遭わなければ、本陣には新田軍3万余騎が集結していたと伝えられていることから、300余騎にすぎなかったという斯波軍の本拠地、黒丸城(小黒丸城)の陥落も時間の問題ではなかったのか。

 藤島の戦いで戦死した南朝方・新田義貞の遺骸は、北朝方・斯波高経が長崎称念寺に埋葬したという。

 そこは現在の新田義貞公菩提所・称念寺(福井県坂井市)です。同寺境内には立派な唐門があってその内側にお墓があります。

 また、新田義貞が使っていたとされる兜(国重文)は新田義貞を祭神とする藤島神社に保管されています。

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2021.7

□□源義仲「藤島7郷」平泉寺に=藤島の庄の起源
ー倶利伽羅峠の戦い大勝でー

 倶利伽羅峠(くりからとうげ=富山県と石川県の境にある砺波山の峠)の戦いで平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の大軍に大勝した源義仲(みなもとのよしなか)は、平泉寺へ「藤島の7郷」(旧東藤島、中藤島、西藤島の各村、および円山西の各村=藤島郷42村)を寄進。

 これが「藤島の庄」の起こりといい、のちの、南北朝時代の戦いに大きな影響を与えたといわれています。

 源平時代(12世紀後半)、「越前の戦い」で源軍は、燧ケ城(ひうちがじょう=越前国今庄)にたてこもったが、城中指揮官・平泉寺長吏(ちょうり=最高指導者)の平軍への寝返りに遭い城は陥落し、平軍はまもなく越前・加賀を平定。

 しかしその後、義仲軍は巻き返しを図り、倶利伽羅峠の平軍との戦いで大勝した。

 このあと永平寺長吏は処刑されたが、義仲は、「予想以上の大勝利は全くの神霊の加護によるもの」として、平泉寺に対しては、越前藤島7郷を寄進したと伝えられています。

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2021.7

□□「藤島郷」42村でみる「藤島の戦い」
ー歴史を身近に感じる一つの見方ー

 源義仲が平泉寺に寄進した「藤島7郷」は、下記の「藤島郷42村」(福井市史)と考えられていますが、往時の広い範囲を「地元」ととらえて歴史をみるのも、歴史をより身近に感じる一つの見方ではないか、と考えています。

 例えば、新田塚には、「国史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)があります。

 この伝承の「藤島の戦い」には、黒丸城(小黒丸城=福井市黒丸町)や藤島城(福井市藤島町=西超勝寺)などが登場しますが、「藤島郷42村」の広い範囲でみていると、そのスケールや輪郭が感覚的に伝わってくるような気がします。

 「藤島郷42村」(福井市史)

開発村 新保村 大和田村 堂島村 下中村
上中村 原目村 中ノ郷村 泉田村 藤島村
鍛冶町村 林村 北野上村 北野下村 中新田村
下新田村 寺前村 高柳村 経田村 重藤村
町屋村 大願寺村 幾久村 高木村 舟橋村
舟橋新村 灯明寺村 福万村 牧野島村 上里村
八ッ島村 別所村 郡村 黒丸村 土橋村
安竹村 上伏村 海老助村 地蔵堂村 三ッ屋村
西堀村 堀ノ宮村      


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 2021.7

□□義貞なぜ無防備で藤島城へ向かったのか
―平泉寺はなぜ北朝方へ寝返ったのかー

 藤島城(砦=旧東藤島地区・西超勝寺)へ偵察に向かうのになぜ戦闘準備をしていなかったのか。多くの方が新田義貞の無防備な行動を疑問に思うのではないだろうか。

 また平泉寺がなぜ北朝方(足利勢)へ寝返ったのかについても、多くの方が高い関心を持っているのではないだろうか。
越前での南朝・北朝の戦いに大きな影響
 そう思うのは、「軽装で藤島城へ偵察」、「平泉寺の北朝方へ寝返り」が、越前での南朝・北朝の戦いに大きな影響を与えたと考えているからです。

義貞、灯明寺畷で戦死ー藤島城に向かう途中

ー総勢3万騎、「越前」平定目前にしてー

 振り返りますと、越後からの応援部隊と合流し総勢3万騎余りともいう南朝方の優勢な戦況のなかで、北朝方斯波高経が拠る黒丸城(福井市黒丸町)はじめ足羽の諸城に総攻撃を始めたのは、(延元3年・暦応元年)閏7月2日。

 ちょうどその日の夜、義貞は手兵50騎余を従えて(武装せず)軽装で藤島城に向かい、その途中灯明寺畷で、藤島城の援護に駆けつけるー北朝方高経の部将細川ら300余騎の軍勢に遭遇。

 義貞の従兵には射手もなく楯を持つ者もなく、義貞は致命的な傷を負い、自害して果てたと伝えられています。

 藤島城へ偵察に向かう直前の義貞は、戦況に手応えを感じて、少しでも早く越前を平定して京に攻めのぼろうーと自らに言い聞かせながら、手兵にも士気高揚を促していたのではないだろうか。

 そう考えて、義貞のあっけない最期に思いをはせると「返す返すも残念」に思うのです。

平泉寺の北朝方へ寝返りー義貞戦死の遠因
 ところで、平泉寺は過去に失った「藤島の庄」の寺領回復を条件に北朝方に寝返ったという。

 この失地回復は平泉寺にしてみれば宿願成就でもありましたが、「義貞が灯明寺畷で戦死したのも、このことが遠因になっている」(福井市史)とし、平泉寺の寝返りは戦況に大きな影響を与えたようです。

源頼朝、平泉寺「藤島の庄」一部を延暦寺に寄贈
ーそれ以来、寺領奪回を宿願にー

 もっとも、過去に失った「藤島の庄」の一部は、源頼朝(みなもとのよりとも)が建久6年(1195)に延暦寺へ寄進した。その代償として、平泉寺には同8年(1197)、今立郡池田の郷を与えたものの、平泉寺はそのことを深くうらみ、寺領奪回を宿願にしたという。
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新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社








 

 

 

 



 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 


「越前朝倉氏」起こりの地  

越前朝倉氏・初代広景、 黒丸城主に
−一乗谷に移るまで 6代130年間 居城−

 南北朝時代には、朝倉広景が足利一門の有力武将、北朝方の斯波氏に従って越前に入国。南朝方の有力武将、新田義貞などと戦い、そののち黒丸城主(福井市黒丸町)に。これが越前朝倉氏の起こりです。広景から約130年間6代にわたり黒丸城を居城にしていたようです。
黒丸城は福井市黒丸町=三宅町説は誤り

 福井県の地名(平凡社)によると、黒丸城(福井市三宅町)説について「従来、南北朝期に越前に入国した朝倉広景以来、一乗谷へ移るまでの6代130年間、朝倉氏の居城とされていたが、近年の研究によって、これが誤りであることが指摘された」とし、その上で「近年、城跡より五輪塔が何基か発見されていることから『越前国名勝志の俗説二朝倉ノ時代祈願所寺院ノ跡トモ云う』が正しいかもしれない」としています。

従来の説=黒丸城については、大黒丸城(福井市三宅町)と小黒丸城(福井市黒丸町)の複数の説があって、越前朝倉氏・初代広景は、新田義貞との戦いの功により大黒丸城主になったといい、一方では6代孝景が一乗谷に移った時は、大黒丸が本城で小黒丸は支城だったーとも考えられていたようです)

居城を黒丸城から一乗谷へ
−越前朝倉氏早くから一乗谷に根拠地

 そして文明3年(1447年)、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城から一乗谷に移して町づくりを本格化させたようです。

それから信長に滅されるまでの5代103年間、一乗谷は朝倉氏の居城となり、越前の政治、文化の中心として栄えました。

 もっとも(これまでは)、孝景が文明3年(1447年)に一乗谷に築城し吉田郡黒丸城から移ったーという「朝倉始末記」の俗説が信じられていましたが、新たな資料から、(現在は) 越前朝倉氏は文明3年(1447年)以前の早くから、確実な勢力基盤を求めて、福井平野東南端の宇坂荘一乗谷などに根拠地を築いていたーと考えられているという。       ページトップ

項目
越前朝倉氏初代広景、黒丸城主に
黒丸城は福井市黒丸町=三宅町は誤り
越前朝倉氏早くから一乗谷に根拠地
 
 
 
 
 
 

波しぶき
2021年4月25日

戦国時代の日常、福井弁交えて再現
-今春も県内劇団員が寸劇披露-

 国の重要文化財•特別史跡•特別名勝の一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)で、往時の日常を体感しませんかー。
戦国城下町の日常を再現した恒例の寸劇が、今年も5月5日までの土日祝日に行われます。

寸劇では、県内の劇団員らがふんした商人や武士、町人が行き交い、戦国時代の日常を福井弁を交えて再現。訪れる人々を楽しませくれます。

【参考まで】
戦国城下町の日常を再現の映像(2019年春撮影)
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2021年4月15日
駅前文化施設「響ホール」のフェスタ復活を期待
ー踊り・演奏の一般愛好家の情熱を活かそうー

 福井駅前の文化施設「響きのホール」は、駅前再開発に伴い閉館。同施設で毎年開催されていた「フェスタ」も昨年最後に幕を閉じました。

 しかしこの「フェスタ」は、踊り・演奏の一般愛好家が参加できる福井市内で数少ない催しだっただけに、同ホールの閉館が惜しまれる声も聞かれる。

 このためもし可能なら、(同文化施設は再開発ビルに設けないようですが)近辺の空きビルを活用するとか、既存の文化施設「フェニックスプラザ」を活用するとか、何らかの方法で「フェスタ」の復活が図れないものかーと思うのです。

 例えば「フェニックスプラザ」の活用では、同プラザで開催されている「舞台に上がろう」のイベントとタイアップして「フェスタ」の復活を図るとか。「フェスタ」単独で開催する選択肢もあるのではないでしょうか。

 いずれにしましても“活気ある街づくり”には、踊り・演奏一般愛好家の溢れんばかりの情熱・エネルギーを活かしていくことが欠かせません。このような視点から「フェスタ」の復活を期待したいものです。


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2021.4 ギャラリー「木漏れ日」写真一覧  

風景を切り取る醍醐味ー脳裏に「古城」の響き

 桜の満開のピークが過ぎて花びらが散り始めていましたが、あたり一面ピンク色が漂う華やかな風景は格別。いつみても美しい。

この日は終盤・絶好の花見日和だったようです。ラッキーでした。

とはいえ、貴重な文化遺産「福井城址」になぜ県庁舎がそびえているのか―気になる。 それは県庁舎が入らないように美しい風景を撮りたいから。

そう思いながらも、どのように風景を切り取りとるか―2時間ほど悪戦苦闘しましたが、一方ではそれが写真の醍醐味かなとも。

ところで、福井城址で往時に思いを馳せながら、三橋美智也さんが唄っていた昭和の名曲「古城」をギターの弾き語りで唄ってみたい―とも考えていた次第です。3人あるいは5人、10人で一斉に演奏するのもいい。

もっとも、夢が実現しなくてもその思いは大切にしたいものです。

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2021.4 ギャラリー「木漏れ日」写真一覧

尽きない興趣、写真と映像の世界ー気まぐれに楽しむ

 気まぐれに撮った名所旧跡の映像です。もっといろんな光景を考えていたのですが、思った通りに撮れませんでした。
しかし写真と二兎追っていたのですから、やむを得ないーと自らに言い聞かせているところです。

 とはいえ学習したこともあります。特に名所旧跡をネットにアップする場合は、映像の時間は一、ニ分 長くても三分までを目指すとか。 編集は大変ですが。

 もっとも、私は名所旧跡だけでなく、長い間フラメンコの踊りも撮っています。
またほかにも、写真(和服をリメイクしたドレスやワンピースなど)を動画にしてネットにアップして楽しんでいます。

私にとっては、興趣が尽きない写真と映像の世界ですから、これからも気まぐれに二兎追い続けるのかも知れませんね。

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2014年吉日  

「新田義貞ゆかりの地」に誇りと愛着

 鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した新田義貞は、源義家(みなもとのよしいえ)の血を受けつぐ新田朝氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ=群馬県)で生まれ、灯明寺畷(とうみょうじなわて)=現福井市新田塚=で戦没したと伝えられています。

歴史上の偉大な人物の一人、新田義貞のゆかりの地(新田塚)に住んでいることを知って、誇りと愛着を持つことは、心をより豊かにするーと考えています。
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2014年11月  

新田義貞ゆかりの地を巡る 「ストーリー」を作ろう

 私は日頃から、新田塚および周辺の新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を作って、地域の活性化を図ったらどうかーと思っています。

 福井市と隣接する坂井市丸岡町を中心とした継体天皇ゆかりの地などと連携を図ることも、一つの試みとして考えられるのではないでしょうか。


観光資源の発掘・連携目指そうー経済産業省も補助金で後押し

 最近の報道によりますと、経済産業省は、地方活性化の一環として、各地を巡るパッケージ事業などに補助金を出して後押しする、といいますし、各地域の住民が歴史にもとづく名所周辺の「ストーリー」つくりを研究することは、地域に埋もれた観光資源を発掘していくことにもなります。

 もっとも、福井県内に訪れる観光客は、朝倉遺跡(福井市)や恐竜博物館(勝山市)など有名な場所に集まる一方、周辺の史跡などに足を運ぶ人が限られる傾向にあるようです。

 しかし、効率的な観光客誘致を目指す観点からも、先進地成功事例の研究結果をご教示頂くとかー福井県や福井市のご支援・ご指導を得ながら、新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を一日も早く具体化したいものです。              
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波しぶき 項目
戦国時代の日常、福井弁交えて再現
駅前文化施設「響きホール」復活期待
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新田義貞ゆかりの地に誇り
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