ギャラリー木漏れ日 和服リメイク フラメンコ
ふくい の お城  
福井城址
400年以上前の遺構「福井城址」ー良質の「笏谷石」4万個使用
小浜城址
酒井忠勝自慢の「小浜城天守」ー徳川幕府お抱え大工が指導
天守台寛永12年(1635)、天守その翌年それぞれ完成

石材、地元産花崗岩使用。材木出羽秋田であつらえる

注目される天守の使い方

小浜城址   2021.6  
酒井忠勝自慢の小浜城天守、徳川幕府お抱え大工が指導
ー海から往時の感嘆の声が聞こえそうー
 海からの眺めを美しく魅せたいー。藩主・酒井忠勝はそのような思いから、天守の破風(切妻・入母屋造りの両端三角部分)を黒塗りから白い漆喰に変更するよう、指示したという。

 徳川幕府のお抱え大工中井正純(五郎助)の指導で造られたという忠勝自慢の天守。特に完成した頃、小浜港を行き交う船の乗組員らは、感嘆の声をあげて見入っていたことだろう。
天守台寛永12年(1635)、天守その翌年それぞれ完成
 写真は、海と河川(北川と南川)を外濠として活かした 要害の水城(みずき)、小浜城の天守台跡です。

 酒井忠勝が京極氏に代わり若狭国小浜藩主となったのは 寛永11年(1634)。
 その頃には、京極氏が慶長6年(1601)から手がけた小浜城は「一応完成していた」ともいわれていますが、工事を受け継いだ忠勝は翌年に天守台を 、その翌年寛永13年(1636)10月頃までに天守をそれぞれ完成させたようです。
天守台石垣は地元産(蘇洞門・泊)花崗岩を使用
ー天守の材木は出羽秋田であつらえるー
 もっとも、天守台と天守の普請で使った材料については、石垣は地元産(蘇洞門と泊)の花崗岩を割って使用。石積みは近江国穴生(あのう)の熟練した石垣積み集団が担ったほか、天守の材木は材木産地として名高い出羽秋田であつらえたという。

 それ以来小浜城は酒井氏14代約230年間の居城として存続し、その間、沿岸諸港との交易で栄えた小浜港や城下町の繁栄を見守ってきた天守は、廃藩置県後の明治7年(1874)に解体された。
忠勝が天守への金銀収納、武具備え付けを指示
ー注目される天守の使い方ー
 ところで、忠勝の天守の使い方については、家中にも秘密の保持を命じて、金子と銀子を区分けして箱詰めにするなど天守への金銀収納を具体的に指示していることや、鉄砲や弓など武具の天守への備え付けを指示していることが注目されているようです。
 

「天守台跡」。当時は「天守付属の櫓」(天守東側)を通って天守へ。
 本丸跡外側から
天守台跡」(奥)「小天守台跡」(中)
「天守台跡への入り口」
階段を登ると広場へ。当時は広場に
「天守付属の櫓」があったという
「小天守跡」
「大天守跡」(奥)
 

福井城址 2021.4  
400年以上前の遺構、福井城址ー「笏谷石」4万個使用  
 福井城跡の石材は、地元で産出される良質の「笏谷石」4万個ほど使用されているという。

 また、本丸跡周囲のお濠に面した石垣は「打ち込みはぎ布積み」(接合面を打ち欠いて接点を増やし、目地を水平に積む方式)。

  天守台跡の石垣は「切り込みはぎ布積み」(石を整形し目地を水平に積む方式 )でそれぞれ造られているようです。
  御廊下橋 南側
御本城橋 西側 御本城橋 東側
坤(ひつじ)櫓跡 付近

巽(たつみ)櫓跡 付近

艮(うしとら)櫓跡 付近
御廊下橋 入口付近 山里口御門 裏手の階段 天守台跡 に登る階段

天守台跡

天守台跡 御廊下橋 南側