ギャラリー木漏れ日 和服リメイク フラメンコ
南北朝期「足羽7城」
「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
ー「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー
南北朝期「勝虎城址」
黒丸城の北東重要拠点、勝虎城
小浜城址
酒井忠勝自慢の「小浜城天守」ー徳川幕府お抱え大工が指導
福井城址
400年以上前の遺構「福井城址」ー良質の「笏谷石」4万個使用

南北朝期「勝虎城址」  2021.10  

勝虎城、主郭・黒丸城の北東重要拠点
―南朝期から近世まで存在―

 交通の要衝、九頭竜川と北陸街道が交わる重要な渡河地点(河川を渡るのに適した場所)ー舟橋南詰に立地していたという勝虎城(しょうとらじょう)。

 「太平記」巻20には、「…3番に細屋右馬助(うまのすけ)、千余騎にて河合の庄より押し寄せ、北の端の勝虎城を取り巻いて…」とある「北の端の勝虎城」です。

  勝虎城は、南北朝時代には勝虎与一兵衛政澄が居城し、近世まで存在していたようです。

朝倉期関戸半助居城、柴田期代々橋奉行置く
―江戸期四王天家が世襲で勝虎城を奉行所に―

 朝倉氏時代には関戸半助が居城したといい、柴田勝家時代には福岡七左衛門をはじめ代々橋奉行が置かれていたという。

 また江戸時代には、明智光秀に仕え本能寺の変で信長の小姓・森蘭丸を討ち取ったとされるー四王天(しほうでん)家の元祖・又兵衛政実が、舟橋の管理を任され、それ以来、四王天家が「勝虎城址」に奉行所を置いて世襲で管理にあたったという。

黒丸城・勝虎城・北庄城-結ぶ範囲に足羽7城か
―勝虎城址、今は河川敷でテニスコートに―

 南北朝期の越前の戦いで登場するーいわゆる「足羽7城」の比定地は、いくつかの説がありますが、福井市史によると、勝虎城は、主郭とみられる”黒丸城城構え”の最北東端に立地。

 そして、最南東端の足羽川付近にあったとされる北庄城(南北朝の城館)、主郭の3点を結ぶ範囲一帯に、勝虎城や北庄城などの主要な7つの城があったのではないか、という。

 勝虎城址は現在、河川改修に伴い九頭竜橋(旧舟橋)付近の河川敷にあって、テニスコートとして利用されています。南橋詰には舟橋の由来と橋奉行四王天又兵衛の役所跡を示す碑があります。

「勝虎城跡」は、九頭竜橋(旧舟橋)鉄橋付近の河川敷テニスコートにあったという。写真右上。また、舟橋の由来と橋奉行四王天又兵衛の役所跡を示す碑は写真鉄橋左端。
 

南北朝期の「足羽7城」  2021.10  

「足羽7城」比定、福井市史独自の見解
―「太平記」記述に矛盾、議論の行方に注目ー

 南北朝期の建武1334年〜暦応(1338ー1342年)/延元(1336ー1340年)年間に、越前を舞台に繰り広げられた後醍醐・南朝方新田義貞軍と足利尊氏・北朝方斯波高経軍との攻防で登場する城館(城郭と住居を兼ねた大きな建物)ーいわゆる「足羽7城」。

 その比定地については、いくつの説があり、関係者の高い関心を集めているようですが、主郭とみられる「黒丸城」の比定地修正(福井市三宅町から同黒丸町)に伴い、福井市史では「足羽の城」の所在する範囲を福井市街地西部周辺に改め集約。

 その上で、「太平記」巻20の記述矛盾を指摘して独自の見解を示しており、今後の論議の行方に注目したいものです。

大黒丸城(三宅町)・小黒丸城(黒丸町)説否定
―小黒丸城こそが朝倉氏の居城―

 「黒丸城」の比定地については、従来の大黒丸城(福井市三宅町=根城)・小黒丸城(福井市黒丸町=支城)説が否定され、高経以後、朝倉氏が一乗谷入城まで6代約130年間拠点とした黒丸城は、「小黒丸城こそが朝倉氏の居城であったという新しい見解だされた」(福井市史)。

「足羽7城」とは

 ちなみに、「足羽7城」とは、「太平記」巻20の「足羽城」(あすわのしろ)と「その内に7つの城をこしらへ」という記述によるとみられているようです。

 それには「義貞も(脇屋)義助も、河合の庄へ打ち越えて、まづ足羽城(あすわのしろ)を攻めらるべき企てなり」。
 また義貞軍の攻勢に対し高経軍が、「深田に水を懸け入れて、馬の足も立たぬやうにこしらへ、路を堀り切って、穽しをかまへ、橋をはづし溝を深くして、その内に7つの城をこしらへ」とあります。

主郭・黒丸城、掘割中心の城構え想定
―「城跡考」などと異なる―

 福井市史の「足羽7城」の新たな見方は、「城跡考」や「日本城郭全集」などが示すー福井市街地周辺に点的に位置する7城ではなく、黒丸城の掘割(地を掘って水を通した所ーほり)を中心とした城の構えを想定。

 具体的には、九頭竜川(北側)と日野川(西側)、足羽川(南側)を天然の掘割と見立てて、九頭竜川と日野川の交わる位置に黒丸城、南端に北庄城、北端に勝虎城(しょうとらじょう)の3ヵ所を結び、その地続き範囲一帯の重要地を掘割で幾重にも区切って、曲輪(城・砦の周りを土塁、石垣、堀などで区画した区域)を築いたと考えており、「それらのうち勝虎城や北庄城などの主要な曲輪が7つの城に相当するのではないか」という。

「太平記」巻20の記述矛盾を指摘

 福井市史が指摘する「太平記」巻20の記述矛盾をいくつか挙げると、義貞が波羅蜜(はらみ)・安居・河合・春近・江守の5ヵ所へ兵をさし向け、斯波方の拠る足羽の城を攻めたーということに関し、「1番手に一条行実が江守より出撃し黒竜明神の前にて合戦する」とあるが、これについては「前後の文脈から推しても江守城での争奪戦を意味しているとは限らない」。 

 また「同じく2番手の船田政経の場合は、安居の渡し(人や荷物を舟で向こう岸に運ぶ)で細川出羽守と合戦した」とあるが、これについては「安居の渡しを渡る方向が西からとも東からとも受け取れ曖昧である」。

 ただ、「3番手の細屋右馬助が河合荘より押し寄せて『北の端なる勝虎城』を取り巻いて合戦した」というくだりは、「合理的でそのまま理解できる」という。

 その上で、近世後期の地誌「城跡考」が示す北庄城・安居城・江守城・小黒丸城・勝虎城・藤島城・波羅蜜城については、「それぞれ振り分けた城館名は、各荘園内での拠点的な位置をもつ城とすべきであって、高経が籠城戦に際して急造したにわか仕立ての城と考えては、地理的関係からも文脈から推しても腑に落ちない」としている。

さらに「太平記」巻21の記述矛盾も指摘

 さらには、同書巻21でも記述の矛盾を指摘。

 義貞の不慮の戦死後、大勢を立て直した(脇屋)義助が再度黒丸城を攻め立て、高経が加賀へ落ち延びるくだりがあり、この時、「5つの城」に火をかけて落ちていったというが、これについても「もし仮に『城跡考』のいう足羽7城のうちの5つの城とするなら、波羅蜜・和田・江守・安居などは義助方が攻め落としており、この時点でも該当しないことになる」という。

 南北朝の争乱期、いわゆる「足羽7城」の主郭とみられる黒丸城址(福井市黒丸町)。
「藤島の荘」最北西端に位置し、越前における北朝方斯波高経の居城だった。
背後に合流する2大川(九頭竜川・日野川)を控え東南方向に深田が広がる要害ーという、立地条件を巧みに利して7つの城(砦=とりで)を築造。南朝方新田義貞の攻勢に備えたとされる。
写真=下・日野川、右端中央・九頭竜川で、いずれも左方向に流れまもなく合流。中央やや左・黒丸町集落)。

小浜城址   2021.6  
酒井忠勝自慢の小浜城天守、徳川幕府お抱え大工が指導
ー海から往時の感嘆の声が聞こえそうー
 海からの眺めを美しく魅せたいー。藩主・酒井忠勝はそのような思いから、天守の破風(切妻・入母屋造りの両端三角部分)を黒塗りから白い漆喰に変更するよう、指示したという。

 徳川幕府のお抱え大工中井正純(五郎助)の指導で造られたという忠勝自慢の天守。特に完成した頃、小浜港を行き交う船の乗組員らは、感嘆の声をあげて見入っていたことだろう。
天守台寛永12年(1635)、天守その翌年それぞれ完成
 写真は、海と河川(北川と南川)を外濠として活かした 要害の水城(みずき)、小浜城の天守台跡です。

 酒井忠勝が京極氏に代わり若狭国小浜藩主となったのは 寛永11年(1634)。
 その頃には、京極氏が慶長6年(1601)から手がけた小浜城は「一応完成していた」ともいわれていますが、工事を受け継いだ忠勝は翌年に天守台を 、その翌年寛永13年(1636)10月頃までに天守をそれぞれ完成させたようです。
天守台石垣は地元産(蘇洞門・泊)花崗岩を使用
ー天守の材木は出羽秋田であつらえるー
 もっとも、天守台と天守の普請で使った材料については、石垣は地元産(蘇洞門と泊)の花崗岩を割って使用。石積みは近江国穴生(あのう)の熟練した石垣積み集団が担ったほか、天守の材木は材木産地として名高い出羽秋田であつらえたという。

 それ以来小浜城は酒井氏14代約230年間の居城として存続し、その間、沿岸諸港との交易で栄えた小浜港や城下町の繁栄を見守ってきた天守は、廃藩置県後の明治7年(1874)に解体された。
忠勝が天守への金銀収納、武具備え付けを指示
ー注目される天守の使い方ー
 ところで、忠勝の天守の使い方については、家中にも秘密の保持を命じて、金子と銀子を区分けして箱詰めにするなど天守への金銀収納を具体的に指示していることや、鉄砲や弓など武具の天守への備え付けを指示していることが注目されているようです。
 

「天守台跡」。当時は「天守付属の櫓」(天守東側)を通って天守へ。
 本丸跡外側から
天守台跡」(奥)「小天守台跡」(中)
「天守台跡への入り口」
階段を登ると広場へ。当時は広場に
「天守付属の櫓」があったという
「小天守跡」
「大天守跡」(奥)
 

福井城址 2021.4  
400年以上前の遺構、福井城址ー「笏谷石」4万個使用  
 福井城跡の石材は、地元で産出される良質の「笏谷石」4万個ほど使用されているという。

 また、本丸跡周囲のお濠に面した石垣は「打ち込みはぎ布積み」(接合面を打ち欠いて接点を増やし、目地を水平に積む方式)。

  天守台跡の石垣は「切り込みはぎ布積み」(石を整形し目地を水平に積む方式 )でそれぞれ造られているようです。
  御廊下橋 南側
御本城橋 西側 御本城橋 東側
坤(ひつじ)櫓跡 付近

巽(たつみ)櫓跡 付近

艮(うしとら)櫓跡 付近
御廊下橋 入口付近 山里口御門 裏手の階段 天守台跡 に登る階段

天守台跡

天守台跡 御廊下橋 南側