ふるさと福井に広がる フラメンコの情熱的な響き!

●私のふるさと 「新田塚」

「新田塚」に住むことに、誇りと愛着 =
歴史上の偉大な人物の一人、新田義貞のゆかりの地

鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した新田義貞は、源義家(みなもとのよしいえ)の血を受けつぐ新田朝氏(にったともうじ)の長男として上野(こうずけ=群馬県)で生まれ、灯明寺畷(とうみょうじなわて)=現福井市新田塚=で戦没したと伝えられていますが、歴史上の偉大な人物の一人、新田義貞のゆかりの地(新田塚)に住んでいることを知って、誇りと愛着を持つことは、心をより豊かにすると考えています。

県都・福井の玄関口「福井駅」で、新田義貞のゆかりの地「新田塚」も案内してほしい

 しかしながら、JR福井駅やローカル線・えちぜん鉄道「福井駅」でみかける観光名所のパンフレット・チラシ類に、新田義貞ゆかりの地「新田塚」が紹介されているのをみたことがありませんし、また、JR福井駅で関係者が配っていた春祭りPRパンフレットにも新田義貞は紹介されていなかったように思います。「歴史的に重要な地域」(歴史関係者)に住む新田塚住民の一人としてさびしい思いがしますが、福井駅は県都・福井の玄関口なのですから、県内外から訪れた観光客にもわかるように、いつも紹介されている他の歴史上の偉大な人物とともに新田義貞も案内してほしいものです。

新田塚および周辺の新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を作ろう

 ところで、私が〜ちょっと一息 ”ふるさと福井”散策〜で紹介しているように、新田塚および周辺の新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を作って、地域の活性化を図ったらどうか、ということを私は日頃から思っています。福井市と隣接する坂井市丸岡町を中心とした継体天皇ゆかりの地などと連携を図ることも考えられるのではないでしょうか。

地域に埋もれた観光資源の発掘・連携へ  経済産業省も補助金を出して後押し

  最近の報道によりますと、経済産業省は、地方活性化の一環として、各地を巡るパッケージ事業などに補助金を出して後押しする、といいますし、各地域の住民が歴史にもとづく名所周辺の「ストーリー」つくりを研究することは、地域に埋もれた観光資源を発掘していくことにもなります。

新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」の具体化、福井県、福井市のご支援を得ながら

 もっとも、福井県内に訪れる観光客は、朝倉遺跡(福井市)や恐竜博物館(勝山市)など有名な場所に集まる一方、周辺の史跡などに足を運ぶ人が限られる傾向にあるようですが、効率的な観光客誘致を目指す観点からも、先進地成功事例の研究結果をご教示頂くとかー福井県や福井市のご支援・ご指導を得ながら、新田義貞ゆかりの地を巡る「ストーリー」を一日も早く具体化したいものです。

(2014年11月)

新田義貞公墓所 早春の頃
福井城址
国の特別史跡、朝倉遺跡
イトヨの里 本願清水

〜ちょっと一息 ”ふるさと福井”散策〜
このページは私どもが住んでいる地域、福井市新田塚町の氏神さん、
新田義貞公 にまつわる話を紹介しています。


また併せて、私どもが住む地域のもう一人の氏神さんとも言える、偉大な継体天皇にまつわる話も紹介しています。


新田塚町名の由来
新田義貞公の戦没地と伝えられる所、新田神社

新田義貞公の戦没伝説地新田神社     地図  

  福井市街地から芦原街道を北へ10分ほど車を走らせると新田塚バス停が見えますが、そのバス停を降りると、新田神社があります。ここは私どもの氏神さん、新田義貞公が戦死したと伝えられている所です。「暦応元年閏七月二日、新田義貞戦死此所」と刻まれた石碑が建っています。

  江戸時代の明暦2年(1656)、この地の水田から新田義貞公のものと思われる古兜(国重文)が見つかったことから、万治3年(1660)に福井藩主4代松平光通(みつみち)がこの石碑を建てました。

  それ以来、この地域は新田塚と呼ばれています。



〜ちょっと一息 ”ふるさと福井”散策〜

新田義貞の戦没伝説地、及び周辺への散策


  
新田塚はじめ周辺の新田義貞ゆかりの地に足を運び学習したとはいうものの、歴史の専門的なことはわからないことばかりです。しかしながら、歴史の詳しいことはわからなくても、新田塚町の歴史をおおまかにイメージできるようになったことからも、新田塚の氏神さん、新田義貞公の歴史に触れる貴い時間であったといえます。

  歴史の知識が深まっていくにつれて、地域への愛着とか誇りに思う気持ちが強まっていくーそのような手ごたえも感じています。ここでは、私が日々の生活の中でイメージしている、新田塚町のおおまかな歴史を私なりに描いてみました。

  新田神社(福井市新田塚)は、新田義貞が藤島の戦いで戦没したと伝えれているところ(灯明寺畷=とうみょうじななわて)です。

  新田義貞は、足利方斯波軍に寝返った平泉寺衆徒が立てこもる藤島城(砦)を偵察するため、本陣から藤島城へ軽装で向かったのですが、1キロ余り行ったところ(灯明寺畷)で藤島城へ救援に向かう敵の歩射部隊と遭遇、ここで戦没したと伝えられています。藤島の戦いに遭わなければ、本陣には新田軍3万余騎が集結していたと伝えられていることから、300余騎にすぎなかった斯波軍の本拠地、黒丸城(小黒丸城)の陥落も、時間の問題ではなかったのかーと考えています。

  藤島の戦いで戦没した南朝方・新田義貞の遺骸は、北朝方・斯波高経が長崎称念寺に埋葬したと伝えられています。そこは現在、新田義貞公の菩提所・称念寺として知られていますが、立派な唐門があって、その内側にお墓があります。

  また、新田義貞が使っていたとされる兜(国重文)は、新田義貞を祭神とする藤島神社に保管されています。


新田義貞の戦没伝説地、新田神社、及び周辺のゆかりの地を地図で紹介しています。散策の参考にして下さい

  新田神社は福井市街地から芦原街道を北へ車で約10分のところです

新田神社

  藤島城址は新田神社から東へ7〜8キロのところ(現福井市藤島町、西超勝寺)にあります。

藤島城址

  新田軍の本陣があったところは芦原街道・灯明寺交差点の白山神社付近と伝えられ、その頃そこには、平泉寺の末寺、天台宗の燈明寺があったようです。新田神社から1キロほど北へ行ったところです。

  黒丸城址(小黒丸城址)は、新田神社から北西へ5〜6キロのところ(現福井市黒丸町)にあります。余談ですが、斯波高経の家臣・朝倉広景は、新田義貞らとの戦いの後、黒丸(小黒丸)城主になったのですが、これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間、この黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたといわれ、文明3年(1471)には、朝倉孝景が越前守護になったのを機に、居城を黒丸城(小黒丸城)から一乗谷へ移したと伝えられています
(朝倉遺跡)

小黒丸城址(黒丸城)

  新田義貞公の菩提所・称念寺は、新田神社から車で30分ぐらいのところ(坂井市丸岡町)にあります。境内案内板によると、浪人中の明智光秀は称念寺に訪れ、そして門前に寺小屋を建てて生活していたという。また江戸時代には、松尾芭蕉が称念寺を訪れ、その頃の光秀夫婦を「月さびよ 明智の妻のはなしせむ」と詠んだと伝えられています。境内に入ると、立派な唐門がみえます。

新田義貞公墓所のある称念寺
称念寺にある新田義貞公墓所
 

  藤島神社は新田神社から南へ3〜4キロ南の足羽山中腹にあり、義貞のものとされる国重文の兜が保管されています。このほかにも、義貞直筆といわれ関係者の関心を集めている古文書が残っています。

藤島神社


〜ちょっと一息 ”ふるさと福井”散策〜

偉大な継体天皇にまつわる話、私どもが住む地域(新田塚)のもう一人の氏神さん

  新田義貞公伝説地の新田塚町およびその周辺だけでなく、「高向の宮の跡」(坂井市丸岡町)を中心とした男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)ゆかりの地も、歴史的に重要な地域ではないか―と考えています。

  継体天皇即位1500年を迎える(2007年)頃、興味があって継体天皇のことを学習していた時には、継体天皇の母、振姫のふるさと―とされている「高向の宮の跡」から、周辺の山々に連綿と続く歴代大首長の古墳群を見渡すたびに、”越の国”(敦賀東の福井、石川、富山、新潟の4県)のスケールの大きさや、その地域を治めていた大首長の偉大さを改めて実感し、そして大いに感動したものです。

  男大迹王は私どもの地域(新田塚)の氏神さんともいえそうですね。少なくとも二人の偉大な氏神さんに守られているということは、とてもありがたいことです。

  その感動が今も深く心に残り、日々の生活の中で往時に思いを馳せる時間があるのは、私にとってこのうえなく幸せなことだと思っています。


  継体天皇の母の故郷 =私どもが住む地域をもう少し大きくみますと、隣の坂井市丸岡町には、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)の母、振姫のふるさと―とされている「高向の宮の跡」がありますが、夫(彦主人王=ひこうしおう)と死別後、嫁ぎ先の近江国高島郡三尾から帰郷し、ここで男大迹王を養育されたと伝えられています。

継体天皇の母、振姫のふるさと―とされている「高向の宮の跡」
高向の宮の跡

  越の国大首長の偉大な支配力 ・ 初代大首長の支配力実感  ・ 新しい門出(てんのう堂)=男大迹王は、大和朝廷からの天皇就任要請を引き受ける58歳ごろまで、「高向の宮の跡」を中心に県内各地を移動しながら精力的に活動していたようですが、そのことは、坂井市三国町をはじめ福井県内のあちこちに数多く残る男大迹王の伝説からも、往時の活動ぶりが目に浮かぶようです。

大和よりの使者、大伴金村らと会見したところとされている「てんのう堂」
てんのう堂

初代大首長墳とされる手繰ヶ城山古墳からの眺望  
初代大首長墳とされる手繰ヶ城山古墳からの眺望

六呂瀬山古墳群の同古墳1号墳には、2代目大首長が埋葬されており、北陸最大規模という
「六呂瀬山古墳群

  繊維産業史と継体天皇 ・  繊維産業史と粘り強い福井県の県民性一方、男大迹王(おおとのおう、おほどおう=後の継体天皇)が生まれた頃、5世紀中頃の古墳時代には、越前、若狭では、福井県の基幹産業の一つである繊維産業の歴史が既に始まっており、それが日本繊維産業史の中で最も古いと考えられているというような、興味深い話もあります。