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白山平泉寺を巡るー福井散策

 
老杉並木に緑の苔広がる、白山平泉寺
自然群生の老杉並木「菩提林」に感動、司馬遼太郎氏
中世の巨大都市造り「石」多用=高技術、武将朝倉氏も取り入れ
中世の巨大宗教都市、豊かな経済力=所領増加と活発金融業
一揆の焼き討ちで平泉寺全山焼失=信長の勢力希薄時決行
 

  2021.7

老杉並木に緑色の苔が広がる=白山平泉寺
―境内に静かに佇む江戸期の本社と拝殿―

 養老元年(717)泰澄大師が開いたとされ、古代から白山信仰を背景に越前馬場(えちぜんばんば)として繁栄―中世の最盛期には「石」を生かした巨大な宗教都市が築かれていたという白山平泉寺。

 境内には樹齢数百年の杉並木に緑色の「苔」が広がり、その奥まったところに江戸期の「本社」と「拝殿」が静かに佇む。

 中世に思いを馳せると、僧侶など住人や参拝客が行き交っている賑わいが甦ってきそう。一方では、凛とした静けさに心が洗われるような思いも。

シャッターを押しながら、その賑わいと静けさのギャップを心地よく楽しんでいます。

「本社」竜の丸彫り、「拝殿」天平時代の風情
―境内の「苔」、司馬遼太郎氏も絶賛―

 「本社」は寛政7年(1795)再建。母屋と向拝を繋ぐ丸彫り(「昇り竜」・「降りる竜」各1本)の繋虹梁(つなぎこうりょう)のほか、壁面には浮彫など秀逸な彫刻が施されている。

また、「拝殿」は安静6年(1859)再建。江戸時代の寄棟造り(四方向に傾斜のある屋根の形)、榑葺(くれぶき=裂いた榑板を重ねて葺いた屋根)の簡素な建物ではあるが、天平時代の風情をよく残しているという。

 ところで、平泉寺の美しい「苔」について司馬遼太郎氏は「十余年前、ここにきたとき、広い境内ぜんたいが冬ぶとんを敷きつめたようにぶあつい苔でおおわれていることに驚いた。苔の美しい季節であったからこそそう思ったのだが…」(越前諸道「街道をゆく」と絶賛。

例年今頃になると、ほどよい間隔の杉並木に「苔」の緑色が漂い、訪れる人々の目を楽しませてくれます。

 
 
 
 
 
 

  2021.7

司馬遼太郎氏、平泉寺の菩提林に感動
―自然に群生した老杉並木―

 平泉寺の自然に群生した樹齢数百年の菩提林(ぼだいばやし)について、司馬遼太郎氏は「私は須田画伯にいった。数年前、水田の尽きるはてにあるこのみごとな杉の森を見たときの感動を、画伯に伝えたかった」(著書・街道をゆく)という。

 白山平泉寺の本社には、老杉の並木道が900メートルほど両側に続く菩提林(ぼだいばやし)を通って行きますが、右側には、僧兵らが九頭竜川から川原の石を手送りで造ったとという、かつての平泉寺への石畳参道が700メートルほど続き、菩提林とともに往時をしのぶことができます。

 菩提林の杉は樹齢数百年といいますが、天正2年(1574)の平泉寺全山焼失前から存在していたと考えられているようです。

 一方、菩提林の途中には、「真夜中に、岩が牛・馬になり道をふさいだ時、逃げれば叶わず、越えれば成就」という、「丑の刻参り」伝承の牛岩(うしいわ)・馬岩(うまいわ)がありますが、これはむしろ結界(境界)といって、俗界の平野部と神聖な山地の境界と考えられているようです。





 
 
 



  2021.7

中世巨大宗教都市、平泉寺=「石」多用都市
―高度な施工技術、一乗谷朝倉氏も取り入れー

  養老元年(717)に泰澄大師が開いたとされ、古代から白山信仰を背景に、越前の登拝(とはい)拠点として栄えた越前馬場(ばんば)平泉寺(現白山平泉寺)。

平安時代末期、天台宗・比叡山延暦寺の末寺になって以降、勢力の拡大を続け、戦国の最盛期には巨大な宗教都市を形成していたようですが、一方では、全国に先駆けてという、高度な「石」の技術を生かした計画的な都市造りが今、注目されています。

これらの高度な技術は、戦国武将・一乗谷朝倉氏にも取り入れられたといい、「石」を生かした城下町が栄えたことから、この観点からも高い関心を集めそうです。

「石畳道」施工や「石垣」築造
―土木工事では「尺」使用―

 計画的な都市造りとは、道がぬかるむ雨・雪対策として「石畳道」を施工し、土留め・視覚効果目的に「石垣」を築造。このほか土木工事では「尺」を使っていたと考えられています。

縦横に石畳道―南谷三千六百坊
―石垣技術、100年余先取り―

 石畳道は南谷三千六百坊の場合、東西3本(道幅3メートル)・南北約10本(道幅2メートル前後)の幹線道路で確認され、川原の扁平な石(径10~50センチメートル)が敷き詰められているという。

石畳導入の理由の一つとして、日本海側特有の気候で雨・雪の日が多く物流や人の移動が困難だったことが、考えられています。

 それらの道路に囲まれた敷地には、大小複数の坊院(標準で約900平方メートル最大3,000平方メートル最小約200平方メートル)が建てられていたようです。

石垣の築造については、近世城郭など高石垣の全国普及は16世紀後半といわれることから、15世紀中頃とされる平泉寺の石垣築造は「全国的にみても非常に早い」(勝山市史)。

 平泉寺では、斜面を切り盛りし平坦地を造成しているため、崩落防止に石垣を築造。石垣は僧侶の屋敷(坊院)を囲む築地塀の基礎部分にも使われていたようです。

割り込み技術「矢穴痕」に注目

 石垣を積む技術で特に注目されるのは、後に発達する割石積みの技術「矢穴痕」(やあなこん=自然石を割って手頃な大きさにするためのくさびを打ち込む穴)。

これは16世紀後半から多用される技術で、一乗谷朝倉遺跡では比較的多くみられ、それより新しい北庄城(柴田勝家築城)や福井城(結城秀康築城)では、割石だけで築かれているという。

 「本社」の前に「石の壁」=視覚効果狙う
  ー土木に「尺」、朝倉氏との関係注目ー

 一方、「本社」の前にある高さ3メートル長さ110メートルの「石の壁」は、視覚効果を高める境内最大の石垣として注目されています。

斜面造成時に出た山石を使い、高さ3メートルを超える巨岩もありますが、「本社」を最も重要な施設と位置付け「下界との隔絶性を示すように、またその勢力を誇示するように」(勝山市史)築かれたようです。

一乗谷朝倉遺跡の「下城戸」でも巨石に圧倒されますが、これも視覚効果を考えた石垣とみられ、ここでも平泉寺と朝倉氏の関係が注目されそうです。

 ところで、坊院(僧侶の屋敷)と坊院の出入り口は、両院の間隔が24.3メートル(80尺の近似値)かその倍の等間隔で設けていることから、土木工事では「尺」が使用されていたと考えられています。

もっとも、戦国の城下町、一乗谷(福井市)でも、町割りで100尺を基準とした「尺」が使用されていることから、平泉寺と一乗谷朝倉氏の関係が注目されているようです。

 
 
 
 
 
 







 
 
 






 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  2021.7

中世の巨大な宗教都市、平泉寺の豊かな経済力
―背景に所領の増加と活発な金融業ー

 平泉寺(白山平泉寺)は平安時代後期、荘園制成立による墾田(山地・湿地を切り開いた新田)を確実に公認させる狙いから、有力な天台宗・比叡山延暦寺の末寺となり、それ以降鎌倉時代から室町時代にかけて、所領(支配家権が及ぶ屋敷・土地・田畑など)の増加や活発な金融業で勢力を大きく拡大。

戦国時代の最盛期には、四十八社(本社など神道系建物)・三十六堂(法華堂など仏教系建物)・六千坊(僧侶の屋敷)、僧兵は八千人に達し、当時の日本では最大規模の宗教勢力を誇り巨大な宗教都市を築いていたようですが、この頃の山中寺院は全国の多くが中世に入る前に消滅するという中、大きく成長した要因と考えられている平泉寺の豊かな経済力が注目されそうです。

平泉寺、藤島壮(福井)支配で大きく成長

 中世の最盛期には平泉寺の寺領(寺所有の領地)は9万石(1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しい)・9万貫(江戸時代以前の通貨単位)。

平泉寺の成長要因の一つは、九頭竜川が福井平野に出る辺りに広がる藤島壮の支配権を得たことが考えられています。

 当時は、現在の勝山市中心に九頭竜川上流の大野市北部、同下流の永平寺から福井市(藤島荘含む)まで広がり、平泉寺所領(膝元所領と荘園所領)からの年貢米収入ほか、免田(租税免除地)からの米銭を得られたことから、極めて豊かな経済力を有していたようです。

所領の拡大、平泉寺六千坊の出現に大きな影響

 一方、平泉寺の所領の拡大は、支配地有力者が平泉寺に坊を構えたという記録からも、平泉寺六千坊と呼ばれる大規模な僧侶の屋敷群の出現に、大きな影響を与えたと考えられています。

活発な金融業、平泉寺繁栄の基礎

 「平泉寺六千坊と称せられる繁栄の基礎は金融活動にあったと考えてよい」(勝山市史)。もう一つの成長要因は、活発な金融業の営み。

 勝山市史などによると、平泉寺の金融業とは「平泉寺神物」の運用をいい、平泉寺神物の名目で農民が米銭を借りて年貢を納め、翌年収納分をもって元利返済に充てる仕組み。これは「借下」(かりさげ)といい「借上」(かしあげ)ともいう。

毎年、年貢が不足すると、同様の仕組みで納入させられるような仕組みらしい。

僧侶屋敷跡から中国・景徳鎮の「白磁観音像」
―豊かな財力背景に一僧侶が購入―

 ところで、南谷三千六百坊と呼ばれる僧侶の屋敷(坊院)跡からは、中国・元代(1300年代)に中国・江西省の景徳鎮(けんとくちん)で作られたとみられる「白磁観音像」が出土。

 これについては「美術品の価値が高い」といわれていますが、一僧侶が豊かな財力を背景に商人から購入したと考えられています。

 
 
 
 
 



  2021.7

平泉寺、一揆の焼き討ちで全山焼失
―信長の越前勢力希薄な時に決行―

 古代から中世後期にかけて白山信仰の拠点として大きな勢力を誇った平泉寺(白山平泉寺)は、天正2年(1574)4月、一向一揆(一向宗=浄土真宗が起こした権力に対する抵抗運動)による焼き討ちにあい、全山を焼失し滅亡した。

 一揆の平泉寺攻めは、加賀一国を支配した一向一揆の勢いが越前にも広がる中、一乗谷朝倉氏を滅ぼした信長の越前勢力が希薄な時に決行。

一揆には、平泉寺の膝元所領(支配権が及ぶ田畑など)の農民も参加しており、平泉寺はその蜂起で滅亡したともいえそうですが、「一揆方には、平泉寺の農民が多く、歴史的な鬱屈と宗教感情があって、かれらがもっともはげしく戦った」(司馬遼太郎氏の街道をゆく)という。

 平泉寺は、焼失してから9年後に再興に向かいますが、最盛期9万石(1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しい)・9万貫(江戸時代以前の通貨単位)という、寺領(寺の所有する領地)はほとんど失い、江戸時代の寺領はわずか三百六十石、坊院も6坊2か寺のみ、と伝えられています。

その後、明治政府の神仏分離令により平泉寺は廃止され白山神社となり、現在の正式名称は「国史跡白山平泉寺旧境内」。

全山焼失に耐えて残った7本の杉
―砦の山、「勝山」の由来に―

 もっとも、南谷三千六百坊跡で発掘された石畳を南へしばらく歩くと、(古絵図にも描かれている)若杉八幡宮があり、そこには全山焼失に耐えて残ったという、力強く荒々しい枝ぶりが印象的な1本の大杉(7本のうちの1本)があります。

 ちなみに一揆地元衆は、村岡山(むろこやま)に砦を構築し勝利を治めましたが、そのあとは村岡山を「勝(か)ち山」と呼び、これが「勝山(かつやま)」地名の由来と伝えられています。