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2021.7 |
■中世巨大宗教都市、平泉寺=「石」多用都市
―高度な施工技術、一乗谷朝倉氏も取り入れー |
養老元年(717)に泰澄大師が開いたとされ、古代から白山信仰を背景に、越前の登拝(とはい)拠点として栄えた越前馬場(ばんば)平泉寺(現白山平泉寺)。
平安時代末期、天台宗・比叡山延暦寺の末寺になって以降、勢力の拡大を続け、戦国の最盛期には巨大な宗教都市を形成していたようですが、一方では、全国に先駆けてという、高度な「石」の技術を生かした計画的な都市造りが今、注目されています。
これらの高度な技術は、戦国武将・一乗谷朝倉氏にも取り入れられたといい、「石」を生かした城下町が栄えたことから、この観点からも高い関心を集めそうです。
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「石畳道」施工や「石垣」築造
―土木工事では「尺」使用― |
計画的な都市造りとは、道がぬかるむ雨・雪対策として「石畳道」を施工し、土留め・視覚効果目的に「石垣」を築造。このほか土木工事では「尺」を使っていたと考えられています。 |
縦横に石畳道―南谷三千六百坊
―石垣技術、100年余先取り―
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石畳道は南谷三千六百坊の場合、東西3本(道幅3メートル)・南北約10本(道幅2メートル前後)の幹線道路で確認され、川原の扁平な石(径10~50センチメートル)が敷き詰められているという。
石畳導入の理由の一つとして、日本海側特有の気候で雨・雪の日が多く物流や人の移動が困難だったことが、考えられています。
それらの道路に囲まれた敷地には、大小複数の坊院(標準で約900平方メートル最大3,000平方メートル最小約200平方メートル)が建てられていたようです。
石垣の築造については、近世城郭など高石垣の全国普及は16世紀後半といわれることから、15世紀中頃とされる平泉寺の石垣築造は「全国的にみても非常に早い」(勝山市史)。
平泉寺では、斜面を切り盛りし平坦地を造成しているため、崩落防止に石垣を築造。石垣は僧侶の屋敷(坊院)を囲む築地塀の基礎部分にも使われていたようです。 |
割り込み技術「矢穴痕」に注目 |
石垣を積む技術で特に注目されるのは、後に発達する割石積みの技術「矢穴痕」(やあなこん=自然石を割って手頃な大きさにするためのくさびを打ち込む穴)。
これは16世紀後半から多用される技術で、一乗谷朝倉遺跡では比較的多くみられ、それより新しい北庄城(柴田勝家築城)や福井城(結城秀康築城)では、割石だけで築かれているという。 |
■「本社」の前に「石の壁」=視覚効果狙う
ー土木に「尺」、朝倉氏との関係注目ー |
一方、「本社」の前にある高さ3メートル長さ110メートルの「石の壁」は、視覚効果を高める境内最大の石垣として注目されています。
斜面造成時に出た山石を使い、高さ3メートルを超える巨岩もありますが、「本社」を最も重要な施設と位置付け「下界との隔絶性を示すように、またその勢力を誇示するように」(勝山市史)築かれたようです。
一乗谷朝倉遺跡の「下城戸」でも巨石に圧倒されますが、これも視覚効果を考えた石垣とみられ、ここでも平泉寺と朝倉氏の関係が注目されそうです。 |
ところで、坊院(僧侶の屋敷)と坊院の出入り口は、両院の間隔が24.3メートル(80尺の近似値)かその倍の等間隔で設けていることから、土木工事では「尺」が使用されていたと考えられています。
もっとも、戦国の城下町、一乗谷(福井市)でも、町割りで100尺を基準とした「尺」が使用されていることから、平泉寺と一乗谷朝倉氏の関係が注目されているようです。 |