福井散策 和服リフォーム フラメンコ

白鳳期、奈良期、平安期(福井散策 古代2)

2026.4
 


かつての渡河地点(糠溜の渡)、古代の「額田郷」
とも伝えるー福井市西部の海老助町

かつての渡河地点「糠溜の渡」―福井市海老助町
―日野川右岸の田園地帯につかの間の安らぎー

 福井市西部の田園地帯、日野川右岸に立地する「海老助町」。 
かつて、左岸地域との渡河地点「糠溜(ぬかたび)の渡」があった所として知られ、舟が行き来する古代の風景に思いを馳せながら、右岸に広がる福井平野を丘陵から見渡すと、つかの間の安らぎを覚える。 

古代の額田郷との見方もー海老助町
―糠溜を額田部の転訛とすればー

 ところで海老助町は、和名抄・越前国司解にみえる越前国足羽郡額田郷と見る向きもあるが、「糠溜の渡」の糠溜を額田部(ぬかたべ)の転訛とすれば、この付近に郷域を比定しうるといわれる。

海老助町を額田郷に比定に2つの説ー西藤島村史
―越前古名考と足羽社記の伝承―


 額田郷について西藤島村史は、海老助地籍の日野川の渡が明治の頃まで「糠溜の渡」といわれていたことから、現在の海老助地方が「上古(大昔)の額田郷に比定されている」とし、地名「額田(ぬかた)」の起こりについては2つの説を挙げている。

「ぬか」と呼ばれた海老助の地名の変遷ー越前古名考
―古代の「足羽の田部」も地名に関係―

 その1つは、郷土資料「越前古名考」(江戸期成立)による。
 古代の海老助地方は「ぬか」という地であったが、ここに「足羽の田部」(大和朝廷直轄地・屯倉〈みやけ〉の耕作者)が置かれたので、その田部を「ぬかの田部」といい、後にそれが転じて「ぬかたべ」と呼ばれ、さらに略して「ぬかた」の地名になったという説。
 この説によると、この地には「足羽の田部」が置かれていたことになり、ぬかの農民は、足羽郷を中心に広く勢力を張っていた有力豪族・足羽氏の部民(べのたみ/隷属の民)となって、屯倉に納める農作物の生産に従事していたことになる、と西藤島村史はみている。

「ぬかた」地名、額田という人と特別関係説―足羽社記
―可能性の1人、継体天皇の孫・額田部皇女―

 もう1つは、古くから伝わる「足羽社記」による。
 「ぬかた」という地名は、額田と言われた人と特別な関係があったためにつけられたのではないかという説。
 その可能性のある1人として、継体天皇の孫・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古天皇)をあげ、この地が、天皇とゆかりの深い足羽宮(足羽山中腹に鎮座する足羽神社)の近くに立地することからも、そう言えそうだという。

足羽神社の馬来田家、神職を代々世襲
―男大迹王の子・馬來田皇女の後裔―


 由緒によると、男大迹王(おほどのおおきみ/後の継体天皇)が即位のためこの地を離れるにあたり、自らの御霊を当神社に鎮め、子・馬來田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主(神官)として後を託したという。
 また、足羽神社の神職を代々世襲してきた馬来田(まくた)家は、馬來田皇女の後裔と伝える。

神官・足羽(馬来田)敬明、江戸期に足羽社記著述
―日本古典や神道を研究する国学者―

 ちなみに足羽社記(足羽社記略)は、江戸中期に足羽神社(福井市足羽1丁目)の神官・足羽敬明(あすわもりはる)氏が著述した地誌・縁起書。
 足羽(馬来田)氏は国学者ともいう。「我が国の古典や神道の研究家として知られ、内外の書籍数100巻を所蔵し、足羽社記、越前国式社地名考など多数の著述を残した」(福井県史)。

2026.4
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篠尾廃寺、白鳳期前葉の軒丸瓦が出土
―深草廃寺と並び北陸最古との見方―


「篠尾廃寺」跡の巨大な「礎石」(塔心礎)。
水田地帯畑地に、野ざらし状態で置いてあり、
いつでも見ることができる。

 福井平野が一望できる最も適した場所(福井市篠尾町)に、古代初期寺院「篠尾廃寺」(創建当時の寺名は不明)は建っていた。出土した軒先を飾る軒丸瓦(白鳳期前葉)から、「深草廃寺」(福井県越前市深草/現龍泉寺)と並び「北陸最古との見方が強い」(福井県史)という。

篠尾廃寺の壮麗な瓦葺の伽藍、平安期初頭まで
―三重高くて五重の塔が聳える―

 篠尾廃寺は白鳳期天武10年(681)には、仏舎利(釈迦の遺骨)をまつる三重高くて五重の塔、仏像を安置する金堂などを中心に周囲を回廊がめぐるー壮麗な瓦葺の伽藍(主要な建物群)が、平安期初頭まで建っていたとみられる。

法隆寺や四天王寺などに匹敵する伽藍

 福井市史によると、布目瓦(古代屋根瓦)の散布の広がりや量の多さから、法隆寺(奈良県)や四天王寺(大阪市)などに匹敵する伽藍を備えた寺院が造営されたーと考えられている。

畑地に巨大な「礎石」(塔心礎)が野ざらし
―篠尾廃寺、一乗谷朝倉氏遺跡へ行く途中―

 篠尾廃寺は、一乗谷朝倉氏遺跡(福井市城戸ノ内町)へ行く途中、158号線天神橋交差点付近に位置し、畑地には、塔の心柱(しんばしら)を支えていた巨大な「礎石」(塔心礎)が野ざらし状態で置かれている。
 礎石は長さ2〜2.6メートル高さ1.2メートル 。彫られた柱を納めるための「柱座 」は径88センチメートルに達し、礎石を中心に一辺12.1メートルの正方形「基壇」(塔の土台)も確認された。

創建者、足羽郡の最有力豪族・生江氏とも
―早くから中央と繋がり東大寺と関わるー

 篠尾廃寺の創建者は、足羽郡の最有力豪族・生江氏とも伝える。
また篠尾廃寺が白鳳期天武10年(681)には造営されていたーという根拠については、生江臣がみえる「大和国飛鳥京跡出土木簡」(天武10年/681頃)にあり、生江氏は早くから中央との繋がりがあって、東大寺と関わっていたーと考えられている。
 もっとも、生江川(足羽川)上流の生江の地(江上郷・江下郷=酒生・和田と岡保の一部)が「生江氏の本貫(本拠)」、篠尾廃寺背後にある北陸最大規模の酒生古墳群が「生江氏の墓」―というそれぞれの説が有力視されていることも、そのように伝える背景にあるようです。

龍泉寺で利用中の沓脱石、深草廃寺の「心礎石」
―径約43センチメートル円形彫り出し―

 一方、篠尾廃寺(福井市篠尾町)と並び北陸最古とみられる深草廃寺は、龍泉寺(越前市深草)境内が跡地とされ、南北250メートル東西170メートルの広い寺域に重なっているとみられるが、塔や金堂など伽藍は確認されていない。
 ただ、龍泉寺で利用されている沓脱石は、残欠(一部が欠ける)だが径約43センチメートルの円形彫り出しがみられ、心礎石と考えられている。

2026.4

越前国府の有力地正覚寺で、今秋から発掘調査
 ―既発掘の有力地本興寺は明確な証拠なし―

 奈良・平安期に置かれた越前国府の所在地を探るー越前国府発掘プロジェクト(越前市教育委員会)は、国司が政務を執る国衙(役所)の有力地の1つ正覚寺(しょうがくじ・越前市京町2丁目)境内で今秋、発掘調査を始める。
 国衙のもう1つの有力地、本興寺(越前市国府1丁目)境内の発掘調査(2023〜2025年度)では、国府跡を示す明確な証拠がなかっただけに、正覚寺発掘に期待が高まっている。

正覚寺あたりを中心に6町4方―越前国府跡推定
―谷口弘行氏説に注目―

 越前国府の推定地は諸説あるが、正覚寺あたりを中心に6町4方(1町約109メートル)―とみる説は、谷口弘行氏が平成8年に研究発表(武生立葵会報)しており、改めてこのエリアが注目されそうだ。
 それによると、これまでに公表された4氏の説は、現存する国分寺や総社、そして南北朝期の新善光寺城跡(現正覚寺)を含む領域がいずれも空白地帯―と指摘。一方では、水路の走る方向や(立地エリアが)自然堤防上の最高地点からみても、「この付近に国衙があったとみてもよい」という。
 また「越前は大国である故に8町4方とみるが、創生期においては6町4方であったのではないか」としている。

国庁を正覚寺に比定できないかー郷土史家提言
―近世北陸道西側寺院域に「想定国府」示すー

 一方、郷土史家の真柄甚松氏は、近世北陸道の西側の寺院域(武生最古地図「府中惣絵図」)について、時の権力者の勧請や許可によって公の土地が寺院域になったとみており、その上で、国庁(国衙の中心建物/政庁)や関連建物群、国司館などを配した「想定国府」を示し、「国庁は正覚寺に比定(谷口弘行執筆・越前国府は正覚寺あたり?)できないか」と著書(武生盆地の歴史)で提言している。

南北朝期の新善光寺城跡地に立地―正覚寺

 正覚寺は、北朝方の越前国守護・斯波高経が南北朝期に築城した新善光寺城跡地に立地。新善光寺城は延元3年(1338)に南朝方の新田義貞との戦いで焼失したが、この攻防で戦死した数千人の霊を弔うため、貞治5年(1366)に建立されたと伝える。

2023.4

「源氏物語」作者・紫式部の十二単衣金色立像
  ー四季の彩りに映えて美しいー紫式部公園ー


 都に思いを馳せながら日野山を仰ぐ、十二単衣をまとった「源氏物語」作者・紫式部の金色立像が、緑や雪など紫式部公園の四季の彩りに映えて美しい。
 桧扇(ひおおぎ)を胸にかざし、下膨れの丸顔、引目鈎鼻(ひきめかぎはな=貴族の顔だち表現技法。細長い筆線で目、「く」の字形の鼻を描く)、髪を足首まで垂らした立像は、像高2.7メートル、台座にかかる十二単衣の裾を入れると3メートルに達する。 

時代考証に基づき、
日本彫刻界第一人者・圓鍔氏制作

 制作を担当した、日本彫刻界第一人者・圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏は、「多感な…20歳前後の、何よりも聡明で身も心も美しい女性像を想像」したといい、十二単衣も平安期に近いものをモデルさんに着付けたー時代考証に基づき、「十二単衣の圧倒的な量感をいかにまとめるかに大変苦心した」という。

紫式部、越前国守の父と共に「たけふ」へ
寝殿造とみられる住まいの国守の館

 一方、紫式部は長徳2年(996)、越前国守(中央から派遣された国司の長官で知事のような役職)に任じられた父・藤原為時とともに、越前国府「たけふ」(福井県越前市)に移り住み、1年余りの娘時代を過ごしたとされ、源氏物語にも、雪国の生活などその頃の経験が少なからず反映されているといわれる。
 そして、その住まい「国守の館」(くにのかみのたち=官舎)は、平安貴族の邸宅・寝殿造(寝殿中心に数棟の建物と池や築山など配した庭園)だったと考えられている。

全国唯一の寝殿造庭園「紫式部公園」
武生市(越前市)が造成

 全国唯一の寝殿造庭園「紫式部公園」は、このような背景があって武生市(越前市)が、市制35周年記念事業として昭和58年(1983)に整備を計画し、越前富士といわれるー日野山の眺望が最もよい、とされる敷地約3,000坪に造成。設計は平安朝庭園研究の大家、森蘊(もりおさむ)氏が担当し、3年後に一部を残し完成した。
 「寝殿」(芝生)の前(南側)に広がる約700坪の池には、石組や州浜、中島などを配置。朱塗りの勾欄(こうらん)の橋が架けられ、また池辺には、風雅な舟遊びの乗降場所のほか納涼月見・雪見の宴・詩歌管弦の場所としても使われたー「釣殿」も再現されており、辺りは平安期の雅やかな雰囲気が漂う。

「龍泉寺」に国司の館があったとの見方も
 ー国府特定発掘調査に期待ー今年度開始ー


「国司の館」があったともいわれる「龍泉寺」(深草1丁目)

 ところで、「国守の館」はどこにあったのだろうか。龍泉寺(深草1丁目)南側の小字「殿前」を根拠にー龍泉寺に「国司の館」があったのではないか、と見る向きもあるが、今年度から5ヶ年計画で実施する、国府特定発掘調査に期待したいものです。

識者6氏それぞれの説で、いずれも市街地を国府に比定

 これまでの識者の見方や遺物の出土状況は、福井県史越前国国府推定図によると、斎藤優、藤岡謙二郎、水野時ニ、真柄甚松、田中完一、金坂清則、識者6氏それぞれの説でいずれも、「国府を武生(越前)市街地に比定」している。

国衙は「本興寺」最有力視ー越前市
今年度、境内北東側で発掘調査


今年度、境内北東側で発掘調査する「本興寺」
(写真・左側奥=本堂北側)


 「国衙」(国の儀式・政務を執り行う国庁とその周辺実務的行政施設)については、境内の規模や郊外に残る条里制(古代の土地整備)の遺構上の位置などから、「本興寺(国府1丁目)が最有力視されている」(武生市《越前市》教育委員会)。
 また「本興寺」北側からは、「石帯」(役人儀式正装用ベルトの帯飾り《石製巡方》)と、「緑釉陶器・灰釉陶器」(製作難しく貴重な国府役人の所持品)が出土しており、今年度着手する本興寺境内北東側の発掘調査が注目される。

「国分寺」の所在裏付ける墨書土器出土
ー越前市役所西側の駐車場

 このほか、「国庁」を「正覚寺」(京町1丁目)と見る向きがあるほか、越前市(国府1丁目)の西側駐車場(立体駐車の隣)からは、「国分寺」の所在を裏付ける墨書土器が出土している。

地域・項 目
福井市海老助町
かつての渡河地点「糠溜の渡」―海老助町
―日野川右岸の田園地帯に束の間の安らぎー
福井市篠尾町
篠尾廃寺、白鳳期前葉の軒丸瓦が出土
―深草廃寺と並び北陸最古との見方―
越前市
越前国府の有力地正覚寺で、今秋から発掘調査
―既発掘の有力地本興寺は明確な証拠なし―
越前市
「源氏物語」作者・紫式部の十二単衣立像
四季の彩りに映えて美しいー紫式部公園