
かつての渡河地点(糠溜の渡)、古代の「額田郷」
とも伝えるー福井市西部の海老助町
●かつての渡河地点「糠溜の渡」―福井市海老助町
―日野川右岸の田園地帯につかの間の安らぎー
福井市西部の田園地帯、日野川右岸に立地する「海老助町」。
かつて、左岸地域との渡河地点「糠溜(ぬかたび)の渡」があった所として知られ、舟が行き来する古代の風景に思いを馳せながら、右岸に広がる福井平野を丘陵から見渡すと、つかの間の安らぎを覚える。
古代の額田郷との見方もー海老助町
―糠溜を額田部の転訛とすればー
ところで海老助町は、和名抄・越前国司解にみえる越前国足羽郡額田郷と見る向きもあるが、「糠溜の渡」の糠溜を額田部(ぬかたべ)の転訛とすれば、この付近に郷域を比定しうるといわれる。
海老助町を額田郷に比定に2つの説ー西藤島村史
―越前古名考と足羽社記の伝承―
額田郷について西藤島村史は、海老助地籍の日野川の渡が明治の頃まで「糠溜の渡」といわれていたことから、現在の海老助地方が「上古(大昔)の額田郷に比定されている」とし、地名「額田(ぬかた)」の起こりについては2つの説を挙げている。
「ぬか」と呼ばれた海老助の地名の変遷ー越前古名考
―古代の「足羽の田部」も地名に関係―
その1つは、郷土資料「越前古名考」(江戸期成立)による。
古代の海老助地方は「ぬか」という地であったが、ここに「足羽の田部」(大和朝廷直轄地・屯倉〈みやけ〉の耕作者)が置かれたので、その田部を「ぬかの田部」といい、後にそれが転じて「ぬかたべ」と呼ばれ、さらに略して「ぬかた」の地名になったという説。
この説によると、この地には「足羽の田部」が置かれていたことになり、ぬかの農民は、足羽郷を中心に広く勢力を張っていた有力豪族・足羽氏の部民(べのたみ/隷属の民)となって、屯倉に納める農作物の生産に従事していたことになる、と西藤島村史はみている。
「ぬかた」地名、額田という人と特別関係説―足羽社記
―可能性の1人、継体天皇の孫・額田部皇女―
もう1つは、古くから伝わる「足羽社記」による。
「ぬかた」という地名は、額田と言われた人と特別な関係があったためにつけられたのではないかという説。
その可能性のある1人として、継体天皇の孫・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古天皇)をあげ、この地が、天皇とゆかりの深い足羽宮(足羽山中腹に鎮座する足羽神社)の近くに立地することからも、そう言えそうだという。
足羽神社の馬来田家、神職を代々世襲
―男大迹王の子・馬來田皇女の後裔―
由緒によると、男大迹王(おほどのおおきみ/後の継体天皇)が即位のためこの地を離れるにあたり、自らの御霊を当神社に鎮め、子・馬來田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主(神官)として後を託したという。
また、足羽神社の神職を代々世襲してきた馬来田(まくた)家は、馬來田皇女の後裔と伝える。
神官・足羽(馬来田)敬明、江戸期に足羽社記著述
―日本古典や神道を研究する国学者―
ちなみに足羽社記(足羽社記略)は、江戸中期に足羽神社(福井市足羽1丁目)の神官・足羽敬明(あすわもりはる)氏が著述した地誌・縁起書。
足羽(馬来田)氏は国学者ともいう。「我が国の古典や神道の研究家として知られ、内外の書籍数100巻を所蔵し、足羽社記、越前国式社地名考など多数の著述を残した」(福井県史)。
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