「源氏物語」作者・紫式部の十二単衣金色立像
四季の彩りに映えて美しいー紫式部公園
都に思いを馳せながら日野山を仰ぐ、十二単衣をまとった「源氏物語」作者・紫式部の金色立像が、緑や雪など紫式部公園の四季の彩りに映えて美しい。
桧扇(ひおおぎ)を胸にかざし、下膨れの丸顔、引目鈎鼻(ひきめかぎはな=貴族の顔だち表現技法。細長い筆線で目、「く」の字形の鼻を描く)、髪を足首まで垂らした立像は、像高2.7メートル、台座にかかる十二単衣の裾を入れると3メートルに達する。
時代考証に基づき、
日本彫刻界第一人者・圓鍔氏制作
制作を担当した、日本彫刻界第一人者・圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏は、「多感な…20歳前後の、何よりも聡明で身も心も美しい女性像を想像」したといい、十二単衣も平安期に近いものをモデルさんに着付けたー時代考証に基づき、「十二単衣の圧倒的な量感をいかにまとめるかに大変苦心した」という。
紫式部、越前国守の父と共に「たけふ」へ
寝殿造とみられる住まいの国守の館
一方、紫式部は長徳2年(996)、越前国守(中央から派遣された国司の長官で知事のような役職)に任じられた父・藤原為時とともに、越前国府「たけふ」(福井県越前市)に移り住み、1年余りの娘時代を過ごしたとされ、源氏物語にも、雪国の生活などその頃の経験が少なからず反映されているといわれる。
そして、その住まい「国守の館」(くにのかみのたち=官舎)は、平安貴族の邸宅・寝殿造(寝殿中心に数棟の建物と池や築山など配した庭園)だったと考えられている。
全国唯一の寝殿造庭園「紫式部公園」
武生市(越前市)が造成
全国唯一の寝殿造庭園「紫式部公園」は、このような背景があって武生市(越前市)が、市制35周年記念事業として昭和58年(1983)に整備を計画し、越前富士といわれるー日野山の眺望が最もよい、とされる敷地約3,000坪に造成。設計は平安朝庭園研究の大家、森蘊(もりおさむ)氏が担当し、3年後に一部を残し完成した。
「寝殿」(芝生)の前(南側)に広がる約700坪の池には、石組や州浜、中島などを配置。朱塗りの勾欄(こうらん)の橋が架けられ、また池辺には、風雅な舟遊びの乗降場所のほか納涼月見・雪見の宴・詩歌管弦の場所としても使われたー「釣殿」も再現されており、辺りは平安期の雅やかな雰囲気が漂う。
「龍泉寺」に国司の館があったとの見方も
国府特定発掘調査に期待ー今年度から開始
「国司の館」があったともいわれる「龍泉寺」(深草1丁目)
ところで、「国守の館」はどこにあったのだろうか。龍泉寺(深草1丁目)南側の小字「殿前」を根拠にー龍泉寺に「国司の館」があったのではないか、と見る向きもあるが、今年度から5ヶ年計画で実施する、国府特定発掘調査に期待したいものです。
識者6氏それぞれの説で、いずれも市街地を国府に比定
これまでの識者の見方や遺物の出土状況は、福井県史越前国国府推定図によると、斎藤優、藤岡謙二郎、水野時ニ、真柄甚松、田中完一、金坂清則、識者6氏それぞれの説でいずれも、「国府を武生(越前)市街地に比定」している。
国衙は「本興寺」最有力視ー越前市
今年度、境内北東側で発掘調査
今年度、境内北東側で発掘調査する「本興寺」
(写真・左側奥=本堂北側)
「国衙」(国の儀式・政務を執り行う国庁とその周辺実務的行政施設)については、境内の規模や郊外に残る条里制(古代の土地整備)の遺構上の位置などから、「本興寺(国府1丁目)が最有力視されている」(武生市《越前市》教育委員会)。
また「本興寺」北側からは、「石帯」(役人儀式正装用ベルトの帯飾り《石製巡方》)と、「緑釉陶器・灰釉陶器」(製作難しく貴重な国府役人の所持品)が出土しており、今年度着手する本興寺境内北東側の発掘調査が注目される。
「国分寺」の所在裏付ける墨書土器出土
ー越前市役所西側の駐車場
このほか、「国庁」を「正覚寺」(京町1丁目)と見る向きがあるほか、越前市(国府1丁目)の西側駐車場(立体駐車の隣)からは、「国分寺」の所在を裏付ける墨書土器が出土している。 |