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宿場町の面影とどめる今庄ー福井散策(国重要文化財)

熊川宿を巡る

今もなお、宿場町の面影とどめる今庄
―国の重要伝統的建造物群保存地区―

 古来、北陸(福井、石川、富山、新潟の4県)と京、江戸を結ぶ北陸への入り口として栄えた宿場町、今庄(現福井県南越前町今庄/旧今庄町)。

 本陣や脇本陣、問屋場などが置かれていた中心部には、江戸後期の酒屋で脇本陣・京藤甚五郎家や旅籠若狭屋など、昔ながらのしっとりとした家屋が軒を連ね、北国街道沿い約1Kmの町並みは今もなお宿場町の面影をとどめている。令和3年(2021)には国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された。

江戸期、大いに賑わうー宿場町としての形態整う
―福井藩主・結城秀康、防御重視の町並み形成―

 今庄は関門(関所)に始まり後に宿駅として発達。中世に入り、(古代・中世の)北陸道沿いに商家、宿屋、茶屋ができるなど宿場が形成されはじめ、北庄城主・柴田勝家が栃木峠越えを改修すると、この近世の北陸道(北国街道)を往来する人々が飛躍的に増え、宿場町として著しく変貌を重ね初めたとみられる。

 江戸期に入ると、初代福井藩主・結城秀康が北国街道(近世の北陸道)を整備するとともに、今庄を重要な宿駅と位置付け、矩折(かねおり/先を見通せない道)など防御を重視した町並みを形成。一方では北国街道は中山道や東海道に接続され、この頃になると、加賀藩や越前各藩、旅人で大いに賑わい、宿場町として完全な形態を整えたといいます。

異彩を放つ京藤甚五郎家、国の重要文化財・建造物
ー延焼防止を徹底、福井県内最古級ー

 今庄宿の町家の特徴は、延焼防止のための「卯建」(うだつ/防火壁)や「土壁」のほか、豪雪対策に軒先まで張り出す「太い登り梁(はり)」(屋根勾配に沿い設ける梁)など。中でもひときわ異彩を放つのが、福井県内最古級の京藤甚五郎家(国の重要文化財・建造物)。

 屋根両端には、屋根を1段高くした防火壁ー卯建があがり、外壁は「塗籠」(ぬりごめ/柱など木部も土壁で覆う)。また正面と背面の軒下両端に「袖卯建」(防火壁)を設けるなど、徹底した延焼防止対策がみられる。

水戸天狗党の刀傷、京藤家の柱にも残る
ー当家の酒使い風呂沸かした逸話もー

 京藤家には水戸天狗党の逸話や橘曙覧との関係が伝わる。
水戸藩の改革派、天狗党一行は元治元年(1864)、尊王攘夷(天皇を尊び外国勢力を排除しようとする思想)を朝廷に訴えるため京を目指し、大野を経て池田から無人の今庄宿に入り京藤家にも滞在。

 京藤家の柱には天狗党がつけたとされる刀傷が残っているが、この傷は「自分たちの境遇に苛立って」という一方で、「久しぶりの酒で上機嫌になって」とも伝える。また「(酒屋であった)当家の酒を使い風呂を沸かした」という逸話も。

橘曙覧の門人、5代目京藤甚五郎三男

 江戸末期の歌人・橘曙覧との関係では、5代目京藤甚五郎の三男夏彦は、曙覧の門人だった。曙覧は21歳も若い夏彦を可愛がり、招かれて当家に泊まったことも。近くの白髭神社境内では、夏彦らと美味しい酒に舌鼓を打ったこともあるという。

近世の栃ノ木峠越え、呼称北国街道―北陸官道変遷
―最古の山中峠越え、古代・中世の木ノ芽峠越えー

 今庄町誌などによると、今庄周辺の北陸道(官道)の変遷は最古の山中峠越え。鹿蒜郷帰村(かひるごうかえりむら/旧鹿蒜村帰集落/現南今庄)を通るため「帰(かえる)山路」、また「かへるみの 道行かむ日は五幡の 坂に袖振れわれをし思はば」(大伴家持)など万葉歌人に詠まれたことから「万葉の道」―ともそれぞれいう。

 木ノ芽峠越えは天長7年(830)、豪族・上毛野陸奥公(かみつけのむつのきみ)が、敦賀から鹿蒜郷に至る最短新路を開削。これにより木ノ芽峠越え(西近江路)は、古代・中世の重要な街道として都人や旅人などに利用された。

 天正6年(1578)以降は、北庄城主・柴田勝家が安土城参勤の最短軍用道(道幅3間/約5・5メートル)として柳ケ瀬(近江国)に至るまで大改修したー栃ノ木峠越え。改修後は北国街道(東近江路/近世の北陸道)と呼ばれ幹線路として利用された。

「万葉集」や「太平記」などにみえる「帰」集落
―後ろの山一帯が「帰山」と伝わる、古老の話―

 ところで、今庄宿南端の追分口「文政の道しるべ」を右に曲がり、(古代・中世の)北陸道を西に向かうと、まもなく「万葉集」や「太平記」などにみえる鹿蒜郷帰村(現南今庄)に着きます。

 帰村は今庄(旧今庄町)では最も古く、奈良期には延喜式に記されている鹿蒜駅が置かれた集落。北陸道沿いに式内社鹿蒜神社が鎮座し、南側に鹿蒜川、そして地区の古老によると、集落うしろの山一帯が帰山と昔からいわれている、という。
 
 帰山の位置は諸説あって定かでないといいますが、福井藩主・松平春嶽の側用人、中根雪江(なかねせっこう)の「道中絵図」(福井市郷土歴史博物館所蔵)には、古老の話と同じ位置関係で往時の風景が描かれており、「帰山の麓の帰村というも、宜なるかな(うべなるかな/もっともであるなぁ)である」(今庄町誌)ーという、識者の見解を尊重したいものです。

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今もなお、宿場町の面影とどめる今庄
国の重要伝統的建造物群保存地区
異彩放つ京藤甚五郎家、国重要文化財・建造物
―延焼防止・豪雪対策に特徴―福井県内最古級
「帰山」麓の「帰村」に鎮座する「式内社鹿蒜神社」
東西に走る神社前(古代・中世の)北陸道、今庄宿場へ