2026.7
古くから盛んな絹織りと養蚕ー福井県絹織物の歴史
越前市北部の朽飯町に「繊維王国福井」のルーツ

朽飯八幡神社(越前市朽飯町)の境内
福井県絹織物の歴史をみると、古代から中世かけて、足羽山古墳群から福井県最古の絹織物が出土、伊勢神宮領地・足羽御厨(あすわのみくりや/後の北庄)が伊勢神宮に御戸帳(みとばり・御帳/幌〈絹布〉)を献上、坂北荘、藤島荘の綿(屑繭から作られた絹製品・真わた)がそれぞれ全国屈指の量―などがあり、当地では古くから絹織りが盛んで養蚕を営んでいたことがわかる。
福井県(越前・若狭)における絹織りの営みは、弥生時代末期(2〜3世紀ごろ)に大陸から集団で移り住んだ人々が、当地でも暮らし始め、その妻ら家族が絹織物を織るようになった、といわれている。
「続日本紀」には、和銅5年(712)、元明天皇が越前ほか20カ国に綾錦絹織物の生産を命じていたことが記されており、また延喜5年(905)には、越前、若狭など36カ国から絹帛(けんぱく/絹織物)を朝貢させていた史実がみえ、当地はその頃から全国有数の絹織物産地として知られていた。
このほか、今なお「繊維王国福井」といわしめる、そのルーツが、福井県越前市北部の朽飯(くだし)町にあるという。
朽飯八幡神社の由緒略記によると、5世紀前半允恭(いんぎょう)天皇の時代、煩速日之命(ひはやひのみこと)の神孫(しんそん)にあたる服部連(はとりのむらじ)が、織部司(おりべのつかさ)に任じられ当地に下向すると、この地域を「服部郷(はとりごう)」と命名し、煩速日之命を創祀以来の祭神・八架神に合祀して、鎮守としたことに始まると伝える。
その後、5世紀末顕宗(けんぞう)天皇(485~487)の時代に、百済国から機織りに優れた織姫が渡来。養蚕と絹織物の技術を郷民に教え、生産された絹織物は、貢物として朝廷に上納していたという。
福井県最古の地場産絹織物出土ー足羽山・竜ヶ岡古墳
日本最古の技術集約度の高い複合糸絹織物も出土

足羽山古墳群・竜ヶ岡古墳
4世紀末~5世紀に築造されたといわれる足羽山古墳群(福井市中心部足羽川左岸)からは、福井県最古の越前地方で産出された絹織物が数種類みつかっており、古墳期400年頃には既に、県内で養蚕と絹織りの営みが始まっていたと考えられている。
足羽山古墳群は、和名抄にみえる足羽郷を中心に広く勢威を張っていた有力豪族、足羽氏一族の奥津城(神道のお墓)とみられる。
この絹織物は、足羽山古墳群の中でも早い時期の首長墳という、竜ヶ岡古墳(足羽山3段広場北側)の副葬品の1つ、刀剣に付着していた絹片。 その中の綴織(つづれおり)様織物は、日本古来とされる「天蚕(てんさん)」の糸束を経糸の芯に、家畜化された「家蚕(かさん)」の糸束を撚り絡ませた、技術集約度の高い複合糸が使われていたとみられ、「日本最古」の貴重な高級絹織物といわれる。
養蚕が当地に入ってきたルートについては、杉谷A遺跡(富山市・古墳時代出現期)の素環頭太刀(そかんとうたち)に付着した絹織物の断片や、青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき鳥取市・弥生時代前期末から古墳時代前期)の平織り絹を縫い合わせた布など、日本海沿岸各地から古墳時代前期の絹製品が出土していることから、大陸から北部九州へ伝わりしばらく定着した後、日本海ルートで伝播したと考えられている。
高級絹織物を産出、越前・若狭の絹文化に注目
十善の森古墳(若狭町)からも「経錦」出土

十善の森古墳(福井県若狭町)
県内では、技術集約度の高い複合糸絹織物が出土した竜ヶ岡古墳とともに、若狭地方の十善の森古墳(若狭町、6世紀初め)からも、「経錦」(たてにしき/経糸で地の文様を織り出す錦)が出土しており、古代から高級絹織物を産出していた越前・若狭の絹文化が、改めて注目されそうだ。ちなみに経錦は、古墳時代前期初頭(3世紀中頃)のホケノ山古墳(奈良県桜井市)からも出土している。
日本最古の日本製絹織物、北部北九州・有田遺跡から出土
日本最古の日本製絹織物は有田遺跡(福岡市早良区/さわらく)で出土、細形銅戈(ほそがたどうか・青銅製武器)に絹片が付着していた。時期は弥生時代前期末~中期初頭 。織り方などから純国産という。養蚕は大陸から稲作農耕とともに伝わったとされる。
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坂北荘、坪江荘、藤島荘の各綿(絹)、全国屈指の量
朝倉氏、3カ庄10人衆軽物(絹布)座に独占営業権

中世・藤島荘の中心地だった福井市藤島町
一方、鎌倉期、特に越前国北方は全国屈折の綿(木綿ではなく屑繭から作られる真わた)の産地だった。綿は呉綿(くれめん)・御服(ごふく)ともいい、越前国の荘園年貢にみえる衣料の大部分はこの綿で、主として冬季衣服の綿入れ向けに重宝された。
当時、年貢として納めていた綿は、九頭竜川中流北側の坂北荘10,000両、坪江荘(上・下郷)8,720両とそれぞれ突出し、九頭竜川中流南側の藤島荘3,000両も全国屈指の量だった。
南北朝の争乱期には、平泉寺の比叡山延暦寺への年貢は米4,800石の約8割、綿3,000両に達し、平泉寺はその負担の重さに不満を募らせ、藤島の戦いでは、藤島庄領有を条件に、南朝方・新田義貞から北朝方・斯波高経に寝返り藤島城(福井市藤島町)を守備していたと伝える。
それはともかく、絹織物1反は着物約1着分で約1キログラム。その分の蚕を育てるのに約98キログラムの桑の葉を使うというから、当時、坂北庄・坪江庄・藤島庄の一帯に広がっていた、広大な桑畑が目に浮かぶ。
戦国大名・朝倉氏は明応2年(1493)、直轄地、3ヵ庄(木田・石場・北庄3集落から成る町場)の10人衆という軽物(かるもの/絹布)座商人(同業者組織)に対し、越前北部の独占営業権を保証。
当時、3ヵ庄の絹布などは、高級品として領内のみならず全国的にも定評があり、その原料となる糸は他国商人に注目されていたとみられ、朝倉氏は明応2年に続き永正6年(1509)にも、他国商人の糸の直買いを禁止した。
また、北庄を中心とした軽物座の発生については、延文3年(1358)足羽御厨が伊勢神宮に「上分絹7疋 口入廿疋」を納めており、越前は養蚕が盛んなこともあって、早くから絹業が起こっていたことが背景にあるとみられる。
絹織物、名声広がるー福井藩主結城秀康、品質改良と販路拡大図る
越前・若狭(福井県)における絹織物の高い品質が、全国に知られるようになったのは、慶長5年(1600)、初代福井藩主・結城秀康が入封した江戸期。
秀康は従来3種のうち玉紬を「北庄紬」と改め、藩士の家族内職として奨励。品質改良・販路拡大も図り公儀献上品の1つとしたことから、その名声は全国に広まった。3代福井藩主・松平忠昌の頃には北庄紬を「奉書紬」に改め、生産量は年産1万疋に達した。
絹産業の近代化、由利公正の研究・改良指示が端緒
先進地、群馬県桐生から羽二重製織の技術指導
明治期に入ると福井県繊維産業の近代化が進み、明治中頃から大正期中頃にかけて、絹織物は目覚ましい勢いで発展した。
明治4年(1871)、由利公正(旧福井藩士)がヨーロッパから数種類の絹織物を持ち帰り、酒井功(同)に対し、これを研究して奉書紬の改良を図るよう指示。
これが福井県繊維産業近代化の端緒となり、明治10年酒井功らは綾織ハンカチーフと傘地の製織を始め、工場を増やして明治18年ごろには、傘地と越前手巾(えちぜんしゅきん/ハンカチーフ)は全盛期を迎えた。
明治20年には、先進地、群馬県桐生から羽二重製織の技術指導を受けたが、このころ福井県には、最新鋭のバッタン機(紐を引くと、経糸の間を杼〈ひ/緯糸を通す道具〉が左右に飛ぶ)が既に200台導入されており、技術が蓄積されていたため、羽二重製織の技術伝習は短期間で終えたという。
明治36年県内絹織物生産額、先進地群馬抜き1位
福井羽二重27年には、全国生産額の60%占める
福井県の絹織物生産額の推移をみると、明治18年(1885)は全国生産額の1.8%に過ぎなかったが、明治36年には先進地群馬県を抜き、その翌年には全国の32.8%を占めるに至る。
これを支えたのが福井羽二重。早くも27年には全国羽二重生産額の60.2%に達し、「羽二重王国」としての福井県の地位は揺るぎないものになっていた。
大正8年絹織物生産額3年比6倍増―世界大戦勃発で
輸出、羽二重低下に転じ絹紬と縮緬が伸び始める
さらに、大正3年(1914)には第1次世界大戦が勃発。福井県絹織物生産額は海外需要が急増したため、大正8年には、開戦時比6倍増の1億5,700万円に達し、驚異的な伸びを示した。
ただ、福井県輸出向絹織物の内訳に注目すべき変化が起きていた。その内訳は羽二重が大戦前まで圧倒的シェアを占めていたが、大正6年頃から羽二重のシェアが低下しはじめ、絹紬や縮緬(ちりめん)が伸び始めていた。
もっとも、輸出向け内訳の変化は、明治後半から大正にかけて、バッタン機から力織機(水力・蒸気・電気などを使う製織機)への転換が相次ぎ、設備の近代化が大幅に進展、それに伴い生産品種の多様化・高度化が進んでいた成果ともいえる。
大正11年県内絹織物生産額、ピーク時の半分以下に
養蚕家も今では1戸―大正6年ピークに減り続ける
大正7年第1次世界大戦が終結すると、開戦後好況を続けていた絹織物の福井県内生産額は、大正8年をピークに、羽二重など輸出向け織物の落ち込みが響き、11年は7,700万円と最盛期の半分以下に減少、その後も慢性不況が続いた。
このため、15 年頃になると県内織物業界は、人工的に作った光沢のある絹糸のような糸、「人絹」の製織に活路を見出そうとしていた。
一方、福井県内の養蚕農家は、大正6年(1917)の24,691戸をピークに、価格の低迷や化学繊維の普及、外国産生糸の輸入などで減り続け、今では県内で1戸(福井市)だけとなった。
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