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フラメンコの情熱的な響き

  ソーイング美登里
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フラメンコ
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           >クローズアップ   >フリルの付け方自由自在、いろいろな水玉勢ぞろい!  >ツーピース・ワンピース  >スカート  >日本は今、フラメンコブーム   > フラメンコの歴史 

クローズアップ
ツーピース
ワンピース
ツーピース
バタ・デ・コーラ ワンピース
バタ・デ・コーラ ワンピース
パタ・デ・コーラ(スカート)


フリルの付け方も自由自在! いろいろな水玉が勢ぞろい!   

同じ素材の布地で デザイン違いとフリル違いのワンピースとツーピース

ワンピース
ワンピース
ワンピース
ツーピース

ワンピース

黒のベロアのワンピース

ベロアとレースを組み合わせたフリルなしのワンピース

 


フリル4段後ろ上がりの今風のスカート

4段フリル後ろ上がりのスカート 

 

 


フリル5段後ろ上がりスカート

5段フリル後ろ上がりスカート

 

 


スカート

    いろいろな水玉が勢ぞろい!   

フリルの付け方も自由自在!

フリルの付け方や水玉の色は他にもあります。

 


 
スカート
スカート
スカート
スカート
 
バタ・デ・コーラ ワンピース
 

………  バタ・デ・コーラ ワンピース

      フリル段数や付け方はいろいろできます。

     

 
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ツーピース・ワンピース
   写真をクリックしますと、拡大写真、説明がご覧いただけます。
ワンピース
バタ・デ・コーラ ワンピース
ワンピース
柄のあるジョーゼットのルーピース
光沢のあるサテンのブラウスと、レースをふんだんに使ったツーピース

ワンピース
ツーピース(ペチコート付き)
ツーピース(ピキージョ、ペチコート付) 
ツーピース
ツーピース背面

ツーピース(ペチコート付き)
ワンピース
ツーピース
ツーピース=地元産素材使用
ツーピース

スカート   写真をクリックしますと、拡大写真、説明がご覧いただけます。
パタ・デ・コーラ(スカート)
スカートとしても使える「ペチコート」=地元産素材使用
スカート
スカート
スカート

スカート
スカート
スカート
スカート
フリル付きピキージョ

                                                   
日本は今、フラメンコブーム=世界の中でも群を抜くフラメンコ熱

今、全国的にフラメンコが盛んになっており、その人口も年々増えているようです。日本におけるフラメンコの指導者や舞踏教室が世界中のどの国よりも多いといわれ、国内舞踏教室生徒数は2004年の時点でも計8万人を超えているとみられています。一方フラメンコの本場、スぺインのアンダルシアを中心とした有名レッスン場に通う生徒の大多数が日本人とか。日本のフラメンコ熱は世界の中でも群を抜いているようです。
(2007年1月)


福井県内でもフラメンコの踊りを楽しむ人が増え続けている

最近福井県内でも、勤労青少年ホームなどの公的なところでフラメンコの踊りを気軽に楽しむ人が増えており、その裾野が広がっているような気がします。 勤労青少年ホーム(大野市、福井市)や公民館(福井市内)、カルチャーセンター(福井市内)でフラメンコ講座が開設されているほか、敦賀市内でも経験者がフラメンコ活動を始めており、フラメンコに関心のある方を気軽に受け入れる体制ができつつあるようです。

(2007年1月)


フラメンコの歴史


音楽や踊りの原型ができたのは、今から200年前の18世紀後半

 ところで、今日に伝わるフラメンコの音楽や踊りの原型ができたのは、今から200年余り前の18世紀後半。この頃はヒターノ(ジプシー)の世界だけでフラメンコを楽しんでいたようです。

 18世紀後半から19世紀中頃までの初期段階は、カンテ(歌)もバイレ(踊り)も、主としてパルマ(手拍子)で演じられるのが普通で、たまにはマルティネーテ(ハンマー)やバストン(杖)が加わることもあったという。ようやく19世紀後半になって、トーケ(ギター)がカンテ(歌)、バイレ(踊り)の伴奏部門を一手に引き受けるようになりましたが、それまではもっぱら、パルマ(手拍子)によって カンテ(歌)、バイレ(踊り)が演じられていたようです。

 今日ではカンテ(歌)、トーケ(ギター)、バイレ(踊り)はフラメンコの3代要素、パルマ(手拍子)は4番目の要素ともいわれています。パルマ(手拍子)には今でも踊り手の立つべき大地を形成する大きな役割があるといいます。

1860〜1910年、タブラオのようなカフェ・カンタンテの舞台で演じる時代に
    ―今日に伝わる大方のリズム形式も完成へ―


 1860年から1910年頃にかけて、カンテ(歌)、トーケ(ギター)、バイレ(踊り)は飛躍的に発展したようです。この頃には、ヒターノ(ジプシー)の狭いエリアだけで演じられていたフラメンコは、今のライブハウスやタブラオのようなカフェ・カンタンテの舞台で、一人のトーケ(ギター)だけの伴奏に合わせて、男女カンタオール(歌い手)やバイラオーラ(女の踊り手)、バイラオール(男の踊り手)が演じられるようになり、今日に伝わる大方のリズム形式が完成されていったようです。

 カフェ・カンタンテの時代には、ヒターノ(ジプシー)が職業的な形でフラメンコをパージョ(スペイン一般民衆)の前で演じるようになり、パージョ(スペイン一般民衆)の実力あるカンタオール(歌い手)も登場したことから、フラメンコはアンダルシアのパージョ(スペイン一般民衆)に親しまれている歌を取り込みながら、次第に大衆化していったようです。ヒターノ(ジプシー)の音楽や踊りがフラメンコの愛称で呼ばれるようになったのもこの頃のようです。「フラメンコ」という言葉は19世紀半ばごろから、「ジプシー」、「ジプシーの音楽や踊り」という意味で使われていたのですが、この頃には、カフェ・カンタンテで演奏するプロ芸人が作った都会音楽を指すようになったともいわれていいます。


1910年頃フラメンコアーティスト海外に活路、日本にも相次ぎ来日


 1910年以降になると、カフェ・カンタンテがフラメンコ以外の娯楽登場などで衰退していったことから、フラメンコアーティストはスペイン国内、諸外国へ舞踏団率いた巡演に活路を見いだしましたが、このような流れの中で、日本にも有名なアーティストが相次ぎ来日、それが日本にフラメンコが伝わるきっかけになったようです。

昭和4年舞踏家のラ・アルヘンティニー、
昭和7年ギター演奏家、カルロス・モントヤが来日


 昭和4年(1929)にはフラメンコ舞踏家、ラ・アルヘンティニータが、昭和7年(1932)にはフラメンコギター演奏家、カルロス・モントヤがそれぞれ来日し、その頃からカンテ(歌)やトーケ(ギター)のレコード輸入が増えていったとみられています。その後、昭和25年(1950)代、昭和35年(1960)代になると、多くのフラメンコアーティストが公演のために日本に訪れるようになり、日本人のトーケ(ギター)演奏家やフラメンコ舞踏家が育っていったようです。

昭和4〜7年といえば、
福井県下では世界恐慌で不振にあえいだ絹織物業に変わり人絹織物が盛んに


 ちなみに、昭和4年(1929)といえば、ニューヨークウォール街で株式が暴落したのを機に、経済恐々がソ連をのぞく全世界を襲い、この影響で福井県下の絹織物業は不振にあえぎ、これにかわって、人絹織物が盛んになっていった。そして昭和7年(1932)には、人絹糸の全国消費の6割を占める福井に世界で最初の人絹取引所が造られ、福井は人絹王国を謳歌していた時期でもあります( 福井県繊維産業史と県民性の関連サイト日記参照 )。

1950〜60年、フラメンコのルネサンスの時代


 1950年代から1960年代になると、タブラオが登場するのですが、これによってカンテ(歌)とトーケ(ギター)はソロというそれぞれの活動分野だけでなく、新たにバイレ(踊り)の伴奏という活動分野が確立されていったようです。この頃は一般的にフラメンコのルネサンス時代といわれています。

アンダルシアに伝わる歌や踊りに、
ヒターノ(ジプシー)民族固有の要素を加えて作り上げる


 もっとも、フラメンコにおいてヒターノ(ジプシー)は最も大きな役割を果たしたようですが、ヒターノ(ジプシー)がインドからアンダルシアに定着しなければ、またはアンダルシアにもともとあるすばらしい音楽の下地がなければ、フラメンコは芽生えなかったのではないか、ともいわれています。それは、ヒターノ(ジプシー)がアンダルシアに伝わる歌や踊りに、ヒターノ(ジプシー)民族固有の要素を付け加えてフラメンコを作り上げたと考えられているからです。15世紀にスペインに入ってから、ヒターノ(ジプシー)は厳しい差別や迫害を受けたようですが、その苦しみの中から、神秘的、霊感的ともいえるフラメンコの民族芸術が作られていったようにもみえます。 (2007年1月)